人間学の現在(28)

人間学

前回の講座で予告したとおり、今回のわたしの話はこれまでの講座のまとめになります。

振り返ってみますと、初回の講座の掲載が2021年の4月のことでしたから、わたしはおよそ三年間にわたりこの講座を連載してきたことになります。

そのあいだ、わたしは自分の過去の記事を読み直してみたことが一度もありませんでした。

そのため、「自分はこれまで何を語ってきたのだろう」という思いが自分のなかにくすぶるようになり、「そろそろ読み直してみたほうがいいぞ」と思うようになりました。

そして、初回から前回までの通し読みを完了したのが、数日前。

アルバムを見るような懐かしい気分を抱きながら、わたしは自分の過去の記事と再会したわけですが、何にせよ、振り返りというものは悪いものではありません。

過去の自分の記事を読むことは、過去の自分と向き合うことと同じです。

「汝自身を知れ」というのは、人間学の創始者ともいわれるソクラテスのことばですが、この講座の連載を読み直してみることで、わたしは、自分自身の人間学研究の履歴を俯瞰できたように思います。

では、結局自分はこの講座のなかで何を問題にし、何を語ってきたのでしょうか。

それぞれの講座のなかで打ち出してきた論点をいま一度整理しながら、ここ数年間の人間学に関わる自身の発言の内容を概観してみたいと思います。

どこを入口にするかという問題

もともとこの講座は、当会のホームページを訪問してくださった方に対するサービスおよび広報として企画されたものでした。

不特定多数の人に向けて人間学について語るわけですから、何を入口にするかということが最初の問題になります。

哲学的人間学にはすでに100年の歴史があるので、これまでに出版されてきた文献を収集するだけでも大がかりな作業になります。

とはいえ、初学者向けの質の高い入門書といえば、その数はおのずから限られてきます。

そこでわたしが選んだのが、菅野盾樹氏の『人間学とは何か』でした。

このテキストを人間学の学びの入口に設定したことは、まぁ妥当だったのではないかと今でもわたしは思っています。

ただし、わたしはこの講座を雑誌記事的なものとしてはじめたため、一貫したテーマをこの講座に与えようという意識はあまりありませんでした。

そのため、いま読み返してみると、この講座の数回までの話はややまとまりに欠けたものになっているのがわかります。

近い将来、講座の原稿に手を入れて一冊の書物にまとめる機会があるかもしれませんが、それはそれとして、これからこの講座の内容を簡単に振り返ってみることにしましょう。

この講座のなかでわたしがはじめに問題にしたのは、「人間の類型学」というものでした。

第1回の話は、この講座の序論とも言うべきもので、当会の創始者である高島博先生とヴィクトール・フランクルとの関係について話しました。

そして第2回の講座から、人間学の入門講座をはじめています。講座を開講するにあたってまずは基本となるテキストが必要なので、わたしはそれを『人間学とは何か』にしたわけです。

しかしながら、このテキストの内容を初めから解説すると、話がかなり退屈なものになってしまいます。どんな話をするにせよ、発話者としては「退屈さ」だけは避けたいわけですから、そこは若干工夫して、人間の類型学というテーマをはじめに持ってくることにしたわけです。

これでいちおう、「どこを入口にするかという問題」には対処することができたと思っています。

「ミニマム人間学」を括弧に入れる

マックス・シェーラーが提示した人間の類型学については、この講座の第2回と第3回で解説しています。菅野氏はシェーラーの類型学を批判的に検討し、そこからミニマム人間学という新しい見解を提示していますが、このあたりの議論に関してはわたしも菅野氏の見解に同意しています。

ただし、わたし自身の人間学研究が菅野氏のミニマム人間学を基礎にしているわけではありません。

第10回の講座において、わたしはミニマム人間学の限界について話していますが、そのあたりの発言をいま振り返ってみると、わたしは初めから、菅野氏の「人間学」にはしかるべき距離を置いて接していることがわかります。

菅野氏は、シェーラーの類型学を批判的に踏襲し(ホモ・◯◯という思考の枠組みまでは放棄していません)、さらにデカルトの二元論を括弧に入れることで、ホモ・シグニフィカンスという新しい概念を定立することに成功しています。

ところが、日本人間学会の人間学研究は、菅野氏の「ホモ・シグニフィカンス」を全面的には是認していません。氏の研究には一定の敬意を払ってはいるものの、「それで人間の存在を根底から捉えることができますか?」という批判精神もこの学会のなかにはあるのです。

わたしがこの講座に「人間学の現在」というタイトルをつけたのも、この講座によってポスト・ホモ・シグニフィカンスの世界観を探求しようと考えていたからです。

そうでなければ、この講座は、既存の人間学の解説講座に過ぎなくなってしまいますから。

大学の授業であるならそれでも大いに結構でしょうが、人間学会のホームページに載せるものとしては、その程度の水準のものではやはり不十分です。

それで、わたしの人間学研究は菅野氏の「ミニマム人間学」を括弧に入れることで、「新しい人間学」なるものを打ち出すことになったわけです。

そのためこの講座は、結果的に、その「新しい人間学」を語るための準備的な論考になっているように思えます。

特別な霊長類としての人間

では、この講座の第4回から第10回までのあいだ、わたしは何を語ったのでしょうか。

これらの回に通底しているわたしの問題意識は、人間を「特別な霊長類」と見た場合にどんな人間学が構築可能か、というものだったように思います。

そのあたりのことを確認するために、これらの講座の小見出しのなかから重要なものを選んで以下に列挙してみましょう。

第4回 人間学の誕生/自己意識と自由意志
第5回 人間学の成立根拠/人間学の意義
第6回 ジャーナリズムと人間学/実学としての人間学
第7回 人間の初期設定/人間学に公理はあるか/特別な哺乳類としての人間
第8回 人間学の二つのテーマ/「意味」を求める存在としての人間
第9回 人間の存在構造の問題/世界認識の窓口としての言語
第10回 「ミニマム人間学」の功績と限界/浮上する「存在論」の問題

これらの講座のなかで、わたしは、「ミニマム人間学」には限界があり、そのために「新しい人間学」の構築が必要だと述べています。

そこで話の順路としては、その「新しい人間学」とはどのようなものなのかということをそれ以降の講座で語るべきなのですが、その構想について簡単には語れない事情がありました。

なぜかというと、新しい人間学を語るためには、新しい世界観のバックボーンを必要としたからです。

しかしながら、新しい世界観なるものは、そう簡単に世の中にあらわれるものではありません。

そこで通常であれば、この手の話はおおむね問題提起だけで終わってしまうわけですが、そうなってしまうと、この講座は羊頭狗肉のものになってしまいます。

手の内を打ち明けると、まぁ、あらかじめ突破口が用意されていたので、わたしは大胆にも「今の世の中には新しい人間学が必要だ」などと威勢のいいことを言ったわけですが、その突破口とはすなわち、「情然の哲学」でした。

そのため、わたしのこの講座は第11回以降、「情然の哲学」の紹介と解説に入っていくことになったわけです。

基礎理論としての「情然の哲学」

「こんな哲学がある」ということで、わたしが初めて『情然の哲学』を紹介したのが、第11回。それ以後のわたしは、どうやってこの新しい世界観を一般の人に紹介するかという問題に腐心するようになりました。

第11回では『情然の哲学』の巻末にある用語解説をそのまま引用し、「世界のはじまりは〈情然〉にあった」という点について説明しています。そして第12回から、この哲学について本腰を入れて解説しています。

 

第12回の冒頭は、「今回から数回にわたって情然の哲学について解説します」というものでしたが、結果的には、わたしの「情然の哲学」の解説は第24回まで続きました。

当初は数回程度で終わるだろうと思っていたのですが、実際には13回にわたってわたしはこの哲学について語っています。

では、それらの講座のなかでとくに重要に思える小見出しを回ごとに二つ選び、以下に列挙してみましょう。

第12回 哲学の原点回帰/『情然の哲学』の功績
第13回 数の「隙間」問題/差異と間と関係と場
第14回 情と心のトートロジー/ありのままの事実としての「情」
第15回 「情然」と東洋思想/「神の愛」と「情然」
第16回 ミクロの世界の常識/マスターキーとしての「情然」
第17回 「情」の普遍的な性質/情然の場にあらわれた陽陰の極性
第18回 親子軸と男女軸の発生/「原初の心」の成長過程
第19回 「情然」から生まれた「愛」/進化した人権思想
第20回 愛と物質の意外な関係/愛と存在は同じもの
第21回 人間と万物、人間と神の関係/愛の理想と世界の創造
第22回 世界観の三つの立場/第四の世界観の登場
第23回 和と道の文化/日本語の構造と存在の構造
第24回 キリスト教と共産主義/対立に満ちた世界

そして、第25回から再び『人間学とは何か』の話に戻り、以後3回にわたって、菅野氏の提示した「ミニマム人間学」の限界について話しています。

そのため、わたしのこの講座は第27回をもって一つの区切りを迎えたといえます。

30回近く講座を続けていると、いつまでも講座を続けていてもいいような感じになるのですが、適当な分量で切り上げるのも大切なことだと思い、前回をもって「人間学の現在」の本編を終了することにしたのでした。

前回の講座で予告したとおり、今回の講座は第1回から第27回までの講座のまとめであり、次回の講座は「新しい人間学」の構想の説明になります。

ただし、新しい人間学(これについてはいずれ何らかのタイトルをつけるつもりです)の講座をこのホームページ上ですぐにはじめるわけにはいきません。

そうすることができればそうしてもよいのですが、新しい思想の構築にはやはりそれなりの準備期間が必要になるので、しばらくはベータ版のようなものを作成しようと思っているのです。

そして、そちらの原稿のほうは当会の会報に投稿しようと考えています。

試作品を会報に投稿し、その内容について研究会員の方々と討議し、ある程度内容を固めることができた段階でそれを書籍のかたちにする、という手順で進めていく予定です。

そのため、前にも話しましたが、この講座の第30回(最終回)の内容は新しい講座の説明になります。

ちなみにその講座のタイトルは、「文学と人間学」というものです。

では、今回の話はこのへんで。

ブログ著者紹介

(関根均 せきねひとし)
1960年生まれ。慶応大学卒業。専攻は国文学。2010年日本人間学会に入会。現在、研究会員として人間学の研究に取り組んでいる。