人間学の現在(4)

人間学

前回の講座では、哲学的人間学の探求が「ホモ・サピエンスの人間観」に代表される五つの類型から「ホモ・シグニフィカンスの人間観」に至るまでの経緯を説明しましたが、このあたりでひとまずスタートラインに戻り、今回は、人間学の誕生というテーマで話をしてみたいと思います。

人間学の誕生

人類の哲学史において人間学という分野が一般に認められるようになったのは、20世紀に入ってからです。では、それまでの哲学には人間存在の問題を主題化するような論究がなかったのかというと、そうではありません。ただ、人間が人間について哲学的に考察するには、自然科学や経験科学(心理学など)の発達が不可欠でした。人間にとって人間の研究は、最も難しいテーマに属するものであるからです。そのため、人間学が哲学の一領域として成立するためには、結果的に見ると、およそ二千数百年もの思想の歴史が必要だったわけです(もちろん現在も人間学の探求は続いています)。

ただし、古代ギリシアの哲学のなかにも人間学的な哲学の芽生えはありました。その代表的な人物は誰かというと、ソクラテスです。ソクラテスは哲学の分野で顕著な業績を遺している人ですから、ここで少し掘り下げておきましょう。

ソクラテスの業績

人類の倫理思想史については、高校の社会科で学ぶ機会があります(「倫理」という科目です)。ソクラテスの哲学についてもそこで紹介されているので、「無知の知」や「汝自身を知れ」という名言を知っている人も多いでしょう。

では、人間学の見地からソクラテスの業績について整理してみましょう。

ソクラテスの哲学史上の位置について考えるためには、ソクラテス以前の哲学について見ておく必要があります。

「倫理」の教科書の語るところによれば、ソクラテスの登場以前には、「自然哲学の成立」と「ソフィストの登場」という出来事がありました。自然哲学とは、自然界の根源にあるもの(アルケー)について考える学問のことで、「万物の根源は水である」と説いたタレス(BC624?〜BC546?)が自然哲学の祖とされています。今日のわれわれから見るならば、自然科学の知見を抜きにして万物の根源に迫ることは不可能ですが、この時代にすでにアトム(原子)という考え方があったことは特筆に値します。

ギリシアでは、紀元前8世紀ごろから多数のポリス(都市国家)が栄えるようになりました。人々はそこにおいて、古代では極めて稀な民主主義的な社会体制を実現していました。自然哲学の隆盛のあと、哲学の主流は功利的なものへとシフトしていきます。これがいわゆるソフィストの登場です。

アテネに代表されるポリスでは民主政治が行われていましたから、ひとが自分の意見を通すためには弁舌力が必要となります。いまでも「迫力のある声が出せれば政治家になれる」というジョークがあるように、当時の人々も、自分の立場を有利なものにするために弁論術を必要としていたのです。政治家はしばしば失言をすることで政治生命を失いますが、この例からも言論がいかに重要なものであるかがわかるでしょう。

自分の意見をわかりやすく伝えるための努力は、話し言葉であれ書き言葉であれ必要なものですが、ソフィストたちが報酬をもらって人々に教えていた弁論術は、やがて論争に勝つための詭弁術に堕していきます。ポリスのあちこちに詭弁を弄する弁舌家が現れた結果、古代ギリシアの民主政治は混乱し、人々の心は荒廃しました。当然、真理の探求を目的とするギリシア哲学の流れも衰退することになります。

そんななかで登場したのが、ソクラテスという人物でした。ソクラテスは先人たちの自然哲学に満足せず、また、個人主義に陥っていた当時のポリス社会にも失望していました。そんな若きソクラテスに、ある日不思議な出来事が起こります。かれの友人のひとりがアポロン神殿で、「ソクラテス以上に知恵のあるものはいない」という信託を受けたのです。

ソクラテスは自分の無知を自覚していましたから、「そんなはずはないだろう」と思いました。そこで、信託の真意を探るため、自分より知恵のある(と思われる)ひとを見つけ出し、自分についての信託が正しくないことを証明しようとしました。

ソクラテスの哲学は、そのため、賢者(と世間から思われている人たち)との対話から出発しています。ここでかれの思索の遍歴を語ることは控えますが、ソクラテスの思索のテーマは「いかに生きるか」ということであり、それゆえにこの人物は、倫理学の祖と言われています。

哲学的人間学においては、ソクラテスによる新しい哲学の出発を「ソクラテス的転回」と呼んでいます。ソクラテス以前にも、「技術知」はあったし「理論知」もありました。技術知とは、たとえば、古代のエジプト人がもっていた高度な測量術などです。また理論知とは、たとえば、哲学の祖と称されるタレスが、ピラミッドの高さの測定や紀元前580年の皆既日食の予言などを行っていたことを指します。

技術知と理論知は、今でも文明社会を支える最も基本的な「知」となっています。20世紀に入ってから科学技術の分野が急速に発展しているのは誰もが知るところでしょう。わたしたちが日常使っているスマートフォンなどにも、技術知の結晶とも言えるハイテクノロジーが使われていますね。

では、今日の人間学から見た場合、ソクラテスの哲学はどのような点において評価されるべきものなのでしょうか。この点について簡単に整理しておきましょう。

ソクラテスの哲学の中心テーマは、「人間」であり「人生」です。人間が人間として生まれてきた以上、このテーマについて考えることは宿命的であるともいえます。

では、ソクラテスは人間をどのような存在として捉えたのでしょうか。

かれは人間という存在を、「肉体をまとった魂」と考えていたようです。

「魂」を「心」と考えれば、この人間観はわたしたちの常識と一致します。ただし、ソクラテスの用いる「魂」ということばには独特の意味が含まれているので、そのあたりのことを少し見ていきましょう。

ソクラテスは、人間の魂が自己意識として存在していることに気づいていました。人間の人生とはつねに「私の人生」であり、人の数だけ「私」がいるということです。動物にも「意識」はありますが、「自己意識」があるかというと、それははなはだ疑問でしょう。たとえば、ペットの犬が犬としての自己を自覚して生活しているようには見えません。かれはわたしたちにとっては犬ですが、当人(当犬)は自分のことを犬だとは考えていないでしょう。つまり、一緒に暮らしている犬にしたところで、それはあくまでも「私にとっての犬」なのです。人間が犬を認識するにも「私」という自己意識がその前提として存在しているわけですね。

 

人間のそんな存在のあり方を当時すでに見抜いていたソクラテスは、「自己意識」が「自由意志」とほぼ同義であることも悟っていたようです。

つまり、人間には自分の生き方を自分で決定することのできる自由意志が与えられている、ということです。これは、動物の行動と比較した場合の人間の顕著な特徴でしょう。

もちろん、人間にも本能的な行動や習慣的な行動のベースはありますが、行動のすべてがそれに拘束されているわけではありません。これは、空間図形の比喩で考えてみると、人間は平面の上を転がる球のような存在です。球は平面と1点で接触していますから、前後左右、どちらにもシームレスに動くことができます。動物の場合は平面の上を転がるタイヤのようなもので、前に進むか、止まるか、あるいは後ろに下がるか、くらいの動きしかできません。

とするなら、人間は自分の生き方を自分で選ばなければならないことになります。そこから、「いかに生きるか」という問題が必然的に生まれてくるわけです。

そこで、ソクラテスは、「人間とは何か」という問題とともに「いかに生きるか」という問題が哲学の主要なテーマであることを悟りました。かれもまた、人間の際立った特徴がその「理性」にあることを確信する点においてギリシア哲学の主流のなかにいる人物でしたが、人間の理性はそもそも、自由意志がなければ発達することができません。なぜなら、理性とは物事について自由に考えることのできる力であるからです。

 

「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスの思想を学ぶ際の格好の入門書となっています。かれ自身は著作を遺しませんでしたが、弟子のプラトンが(プラトンはプラトンとしても有名です)ソクラテスの言動を書き残してくれたおかげで、今日のわたしたちはソクラテスによる「人間学の誕生」という出来事を詳しく知ることができるわけです。

ソクラテスは、「いかに生きるか」という問題を探求するために書斎にこもったりすることはありませんでした。そうではなく、かれは多くの人と対話をすることで人間についての洞察を深めていったのです。これは、近代哲学の父と言われるデカルトの歩みと似ています。デカルトもまた、当時大学で講じられていたスコラ哲学に満足することができず、ひとりで街に出て思索の旅をはじめたのです。

「ソクラテスの弁明」の中身についての解説は、ここでは控えましょう。文庫本などもあり、簡単に手に入る書物なので、興味のある方はぜひお読みになってみてください。哲学の源流に触れるという点においても、この書物の存在は貴重です。

ソクラテスの哲学は当時の人々の魂を目覚めさせたため、ソフィストたちの妬みをかいました。これは、斬新な教えを説いて律法学者たちから激しく妬まれたイエス・キリストの場合と似ています。ソクラテスは亡命するチャンスがあったにもかかわらず、不当な裁判の判決を受け入れ、自らの意思で毒杯をあおぎます。イエスの十字架刑を先取りしたような出来事ですね。かれの哲学は、かれの人生そのものだったのでしょう。

そして、このソクラテスの人生において、現代のわたしたちが学んでいる「哲学的人間学」は誕生したのです。

では、今回の話はこのへんで。