文学と人間学(1)
文学と人間学(1)
今回から「人間学の現在」に続く第二弾の講座になります。
そして今回は、その記念すべき第1回の講座です。
この講座では、原則として1回の講座に一人の作家を取り上げ、その作家の世界観や人生観について考察してみるつもりです。
わたしが大学で文学を専攻したのは、高校時代の読書にその要因がありますが、その時期に作家たちとの出会いがもしもなければ、わたしはおそらく別の道に進んでいたでしょう。
思い返してみると、わたしが若い時分に読んで感銘を受けた作品は、かなりの数に上ります。
それらの作品を時間をおいて読み返すことはあまりしませんでしたが、この機会に、高校時代や大学時代に読んで感銘を受けた作品を再読してみるのもいいじゃないか、と思うようになりました。
ずいぶんと時が経っているので、「いま読んだらどんな感想を持つだろう」というのが個人的な関心事になっているわけです。
話の順序としては、まずは取り上げる作家の文学史的な位置について確認し、その主な作品を概観します。
ここまではごく普通の文学史の話になりますが、その作家に関心のある人にとっては、一般教養の学びとして何かしらの益になるかもしれません。
そのあとで、作家の作品を再読した際の感想を述べてみたいと思います。
ですからこちらのほうは、わたしなりの批評となります。
さらにそこでは、人間学的な見地から、作家の生きざまについても考えてみるつもりです。
ここで「生きざま」というのは、作家の同時代に対する対峙の仕方、とでも言うべきものです。
もう少し具体的に言うと、その作家の文明批評の問題ですね。
漱石にしても鷗外にしても、あるいは芥川などにしても、文学史に大きな業績を残した作家たちは、彼らが生きた時代に対しても優れた発言を残しています。
それらの発言を作家の文明批評という括りで捉えた場合、それは、人間学の研究対象としても意義あるものとなります。
こうした試みは(つまり文学と人間学をリンクさせるという試みは)これまであまりなされてこなかったので、この機会に挑戦してみようと思っているのです。
夏目漱石という人物
では早速、1番目のバッターとして、明治時代に活躍した一人の作家に登場してもらいましょう。
わたしがこの講座のなかで初めに取り上げるのは、夏目漱石です。
これはおそらく、いちばん無難な選択ではないかと思います。
なぜかというと、漱石はとても有名だし、国民的な人気もあるし、作家としての評価も高いですから。
漱石の評価は文学史の専門家によっても、「近代文学史上最高の文学性を確保した作家である」となっています。
ですからまずは漱石、ということになりますね。
ただし、一般的に漱石の名において想起されるのは、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などの作品です。
これはこれとしてもちろん優れているし、面白くもあるのですが、これらの作品だけでは漱石文学の全体像を把握することはできません。
漱石の文学は、もっと奥が深いからです。
そこで、漱石文学の概要をここで簡単に見てみることにしましょう。
まずは、文学史の記述を確認します。
夏目漱石(1867-1916)は初め正岡子規の影響を受けて俳句に親しみ、また後年の「文学評論」(1909)などに片鱗を見せた精細な英文学研究を続けていたが、明治三十八年に至って小説に筆を染め、「吾輩は猫である」を書いた、実生活の暗鬱に窓を開けようとした風刺小説で、現実批判の皮肉と笑いが歓迎された。以後、写生文の系譜につながる低徊趣味を説き、自らその文学観を具体化した「草枕」(1906)をはじめ「倫敦塔」(1905)「坊ちゃん」(1906)「二百十日」(同年)などを発表し、自然主義の批判的存在となった。しかし、漱石の作風は利己と道義の対立を描いた「虞美人草」(1907)や、純朴な青春の遍歴をたどる「三四郎」(1908)あたりを境に一変した。三四郎のヒロインを通じて提出されたエゴイズムの問題は、さらに「それから」(1909)と「門」(1910)の三部作に発展し、漱石文学の最大の主題を形成することになる。
漱石は「現代日本の開花」(1911)という講演で日本文明の皮相な外発性を痛烈に批判したが、かれの文学はそういう同時代文明への懐疑を根底において、知識階級の運命に思いを潜めようとしている。知識人の内面生活に光を当て、かれらのエゴイズムや人間不信を執拗に追求した。修善寺の大患以後、漱石の人間認識はさらに深まり、「彼岸過迄」(1912)以下「行人」(1913)「こゝろ」(1914)を経て「道草」(1915)「明暗」(1916)に至る一連の知識人小説を書いた。行人は自我に憑かれた知識人の孤独地獄を再現し、「こゝろ」は高度な自己否定に到達した人間像を創出して、他者と自我とを同時に傷つけるエゴイズムの限界をあばいている。さらに道草において、自己と自己を取り巻く人間悪をえぐった漱石は次第に現実に対する諦観の境地に近づき、自我を超越した則天去私の倫理を目ざしたが、明暗の中絶によって実現しなかった。漱石の文学は最後まで本格小説の構成を失わず、自然主義の即物性・無理想性と自己を区別する強靭な倫理的骨格に貫かれて、後代文学に大きな影響を与えた。近代文学史上最高の文学性を確保した作家である。(市古貞次著『日本文学史概説 三訂版』p195〜p196 )
ざっと、こんな感じです。
ここにあるような漱石の業績をこれから探索するわけですが、業績自体が大きいため、今回の講座だけで漱石の生涯の仕事を語ることはできません。
そこで、漱石については例外的に、3回にわたってその仕事を調べてみることにします。
今回はその第1回であり、まずは彼の生涯を概観してみます。漱石の経歴を知ることが、漱石を理解する第一歩だと思うからです。
ちなみに2回目は、彼が残した主な作品についてのわたしの感想を述べ、3回目は、小説以外の仕事(随筆・書簡・講演など)についての解説をする予定です。
ではまず、彼が作家としてデビューするまでの足取りについて見ていきましょう。
漱石の三つの体験
夏目漱石は1867年(慶應3年)に生まれています。彼の本名は、夏目金之助です。
漱石は、生後まもなくある家に里子に出され、実家に戻ってから、すぐにまた養子に出されます。養子に出ていたのは1歳から8歳までの間ですから、実の親のことを知らされないまま、彼は幼少期を他家で過ごしたことになります。
五男三女の末っ子で、父が50歳、母が41歳のときの子供でした。当時にしては(今でもそうかもしれませんが)かなりの高齢出産だったことになります。産む予定はなかったが生まれてしまった、という親の事情も、彼の生涯に暗い影を落としていたようです。
彼が生まれ育ったのは明治という時代でしたから(明治の年と彼の年齢は同じです)、現在わたしたちが生きている令和の時代とはだいぶ違います。頭脳明晰で感受性が鋭く、しかも日本人ならではの強い倫理観を持った人間が明治という激動の時代を生きたわけですから、そこにどんなドラマが生じるかはおのずと明らかでしょう。
しかも彼には稀に見る文才がありました。これはわたしたちにとって、とてもありがたいことです。もしもあの時代に漱石が登場しなければ、日本の近代文学は中心点のないやせこけたものになっていたでしょうから。
幼少期を他家の養子として過ごしたこと。これがまず、漱石の漱石という存在をかたちづくる最初の体験です。
作家になる前の漱石の二つ目の体験は、教師という職業でした。
彼は優秀な青年で、一高から東大というエリートコースを歩みます。幼少期より漢籍に親しんでいた彼は英文学を志し、東大文学部の英文学科に進みます。英文学は当時日本にとって新しい分野でしたから、若い漱石の野心に応えるものでした。立身出世が若者たちの合言葉になっていた時代に、彼は英文学という「ハイカラ」な学問の分野で身を立てようとしたわけです。これは彼にとって、きわめて自然ななりゆきだったと思われます。
大学を卒業すると彼は大学院に進み、そのかたわら教師としての仕事をはじめます。これはおそらく、生活上の理由でしょう。このあたりは今の時代に通ずるものがありますね。
彼の教師生活は、イギリスへの留学を挟んで、彼が朝日新聞社と契約を結んで職業作家になるまで続きました。28歳のときには、四国の松山に赴任して中学教諭になります。このときの経験がかの有名な「坊っちゃん」の下地になっています。
漱石の三つ目の体験は、イギリスへの留学です。これは三年ほどの期間でした。国の費用で留学ができるのは名誉なことですが、漱石にとって、これはかなり辛い体験でもありました。
というのは、漱石はそこで西洋の社会を身をもって体験したからです。漱石の渡英目的は英文学の研究でしたから、ほかの多くの器用な日本人と同じように、彼は西洋の文明を間近に観察し、そして英文学に精通して帰国すればよかったのです。
官費留学の帰国者にはよりよい待遇が待っているはずですから(事実彼は帰国後一高の教授や東大の講師になっています)、そのままそこで教鞭をとっていれば、やがて東大の教授になり、生涯安泰なエリートコースを歩むことができたでしょう。
ところが漱石には、それができませんでした。それが漱石の漱石たるゆえんであり、またわたしが漱石という人物に心惹かれる理由でもあります。
漱石は知力だけでも十分に世の中を渡っていける人でしたが、同時に、物事を自分の目で見、自分の頭で考えることのできる人でした。わたしは現在のメディアもいろんな側面でずいぶん偏向していると思いますが、やはり、物事を自分の目で見、自分の頭で考えられる人が少ないからだと思います。
英国留学のなかで漱石が体験したのは、西洋諸国と日本の間に横たわる、文化的・文明的な途方もない断層でした。それはそうでしょう。日本はまだ、ついこの間まで徳川家が支配する江戸時代だったわけですから。
イギリス留学の前に漱石は結婚しており、一家のあるじとしての責任もあります。帰国してからは再び教師の職につきますが、そのときの彼の心の中には巨大な疑念が潜んでいました。
それは、日本の皮相な欧化政策に対する疑念であり、また、近代という時代そのものに対する疑念です。
わたしが思うに、人間には二つの種類があるようです。
一つは、世の中をうまく泳ぐことだけを考えて生きている人。それからもうひとつは、自分が生まれ落ちた時代に対する懐疑を正面から受け止めて、その時代と格闘する人。
漱石は、典型的に後者の人でした。
これにはもちろん漱石の生来の資質もあったでしょうが、彼の人生経験も彼の作品に相当の影響を与えています。
すなわち、養子という幼児体験、教師という社会経験、洋行という当時にしては稀有な経験があったことで、彼の人生観は通常の人のそれよりも格段に深まっていたのです。
また、漱石の旺盛な創作活動の裏側にあったのは、神経衰弱と胃潰瘍です。さらに言うなら、仲間たちから「漱石発狂せり」と噂されるほどの精神不安です。このあたりのことも漱石という作家を理解するポイントになるでしょう。
近代文学の中心軸の形成
日本の文学史をひもといてみると、漱石は鷗外とともに、反自然主義の文学にカテゴライズされています。
そこにあるのは、自然主義対反自然主義という構図です。
しかし、こうした構図をもとに漱石の文学を理解しようとすると、肝心なことが見落とされてしまいがちです。
それが証拠に、漱石の文学にはあまり意味のないラベルが貼られています。余裕派とか、低徊趣味とか、高踏派といったレッテルです。文学史のテキストにはこんな用語ばかりが目立つのですが、世間というものはいつもこんなものなのかもしれません。
漱石の文学に貼られたこうしたレッテルは、「自然主義を基準にすればそのようになる」といったことでしかありません。では、自然主義が日本の近代文学の基準になり得るのかというと、そんなことはありません。はじめに起こった運動が自然主義運動だったので、世間の人は(もしくは文学史家は)両者の文学の質の相違を度外視して、明治の文学を自然主義と反自然主義に分け、二つのものをただ横に並べているだけなのです。
そして、文壇というものを形成したのが自然主義運動の推進者たちでしたから、文学史的には、あたかもそちらの方が主流であるかのようになっているのです(しかもそちらには文学としての実質もないのに、です)。
今から振り返ってみるならば、明治の時代に起こった自然主義運動なるものは、簡単に言えば、西洋文学の模倣です。それも、ごく皮相的な模倣です。
明治政府が西洋の文物を大急ぎで取り入れたように、当時の作家たちも西洋の文芸作品やその理念を性急に取り入れ、その結果、西洋とは文化も文明も異なる日本で西洋かぶれした小説(まがいのもの)が量産されるようになりました。作家も作家ですが読者も読者でしたから、みなそれが偽物の文学であることに気づかず、新しい文学の誕生だとか言って大騒ぎしていたわけです。
(今でも日本のメディアはつまらないことにいつも大騒ぎしていますが、それと同じことでしょう)。
それら自然主義の作品は文学史のなかには残っていますが、今日ほとんど読まれていないのが現状です。
たとえば、漱石の「坊っちゃん」は後代のわたしたちが読んでも面白いし、学ぶべきものもあります。ところが、自然主義の作品は読んでみてもまったく面白くないし、またそこから学ぶべきものもありません。
前者は時代を超えて生き続ける「文学」ですが、後者は「文学の模造品」に過ぎないからです。
文壇という特殊な社会のなかに生きていた人たちの作品に「文学」はなく、文壇から離れた場所で独立独歩の歩みをしていた人のなかにむしろ「文学」があった、というのは、歴史のアイロニーにほかなりません。
このアイロニーを正しく認識しない限り、わたしたちは漱石や鷗外の文学の価値を正しく把握することができないのです。
もっとも、文学史の記述を丸暗記してテストでいい点を取る秀才が文学からは程遠いところにいる、というのは、多くの人がうすうす気づいていることかもしれません。
では、漱石の文学の価値は一体どこにあるのでしょうか。
それは、彼の仕事のなかに日本の近代文学の宿命(とでも言うべきもの)が凝縮されている点にあります。
このあたりのことを理解するには、以下に引用する解説を読むのが近道でしょう。
文芸評論家・中村光夫の解説です。
漱石文学の本質を簡潔にまとめた解説ですから、ここでひとまず、中村氏のことばに耳を傾けてみましょう。
鷗外と並んで、この時代の文壇の時流のほかに立つ巨星として仰がれた作家に、夏目漱石がいます。同じく孤立しながら、鷗外がいずれかというと「スバル」「三田文学」を通じて耽美派と近かったように、漱石は白樺派の青年たちの尊敬をあつめ、その主宰した朝日新聞の文芸欄は、白樺派をはじめ多くの新進作家が華々しく才能を試みる舞台になリました。
夏目漱石は本名金之助、慶応三年(一八六七年〕に東京で生れ、明治二十三年に東大を卒業して、前半生を松山、熊本などで教師として過し、明治三十三年にイギリスに留学し、三十六年に帰国、一高の教授になり、東大の講師をかねました。
一高時代からの友人に正岡子規がいて、その感化で俳譜に親しみましたが、明治三十八年に高浜虚子のすすめで、「吾輩は猫である」を「ほととぎす」に発表して一躍文名を得、ついで「坊つちやん」「倫敦塔」「草枕」などを発表して溢れるばかリの文才で世人をおどろかせ、四十年には一切の教職を辞して朝日新聞社に入社して「虞美人草」を書き、つづいて、「坑夫」(四十一年)「三四郎」(同)「それから」(四十二年)「門」(四十三年)「彼岸過迄」(四十五年)「行人」(大正二年)「こゝろ」(三年)「道草」(四年)「明暗」(五年)というふうに、「門」と「彼岸過迄」のあいだで重症の胃かいようのため一年半ほど休養した以外は、毎年「朝日新聞」に力作を連載しつづけました。
この異例に密度の高い制作ぶりは、たんに豊競すぎる文才の氾濫というだけでなく、何か無気昧な狂熱を感じさせます。彼の初期の作品、「吾輩は猫である」「坊つちやん」などは長らく抑圧された文学的才能の自然な爆発を思わせるものがあり、わが国の近代文学史に稀に見るゆたかな才能の流露が見られますが、「虞美人草」以後彼が職業作家として新聞を発表舞台とするようになってからは、彼の長篇はすべて周到な構成を一点一画をおろそかにせぬ文章で練リあげたもので、このような制作をこの密度でつづけては尋常な健康では堪え得られないことをはっきり示しています。
ことに「彼岸過迄」以後の作品には、衰えて行く健康を制作によって削りとりながら、残された生命をそこに打込もうとする気魂が閃いています。
多くのすぐれた作家と同様に、瀬石は自己の精神にとって死活の問題ともいうべきものを持っていて、これを表現するためには、数年の寿命の長短など問題にする余裕を持たなかったのです。彼がそのように生命がけで追究した問題は何かというと、それは同時代の日本文明の性格にたいする疑惑と、それと結びついた近代人の「我」の問題でした。
もともと激石はすぐれた成績で大学の英文科を卒業したときから、日本において英文学を学ぶことの意味に疑いを持ち、ひいてはわが国における西洋文明移入の方法と、その結果について深い疑惑の虜になり、「人の借着をして威張っている内心の不安」に悩まされ続けましたが、この不安と焦燥はロンドン滞在中極点に達し、一部の人々から彼が狂人になったという噂をたてられたくらいでした。
彼の英文学者たる不安は、要するに英語を味う力に自信が持てぬ結果、ある作品について自分の判断と、英国人のそれとが喰いちがった場合、自分の正しさを押し通す根拠がないということからきたものですが、それから脱却するために、彼は科学的実証的に文学を研究し、そこから得た客観的規準をもとにして、たんなる趣味の判断にたよらぬ、「自己の立脚地を新しく建設」することに、ロンドン滞在中から専念し、この後年の「文学論」に片鱗が示された、精細な科学的研究の結果、「自己本位」の立場を定め、自己の進むべき道を見出して、「軽快な心をもって陰鬱な倫敦を眺め」得るようになったといっていますが、一方同時代の西洋文明輸入によって生じた文化の性格にたいする彼の疑惑は滞英中からますます深まって、帰朝後も彼を「神経衰弱兼狂人」の風評のなかにおくとともに、彼の小説の中心思想をなすようになリました。
(中村光夫『日本の近代小説』の「夏目漱石」の一部)
人間学の見地から見るとき、ここに語られているような漱石文学の特性はとても興味深いものです。
たとえば、そこには日本人の近代的自我の問題があり、日本人のアイデンティティの問題があります。また、男女の問題や夫婦の問題も重要なテーマとして織り込まれているからです。
近代文学の主要なテーマが、彼の作品のなかに集約されているわけですね。
もちろん、これらのテーマは人間学の重要なテーマでもあります。
これらのことを踏まえたうえで、次回、漱石の作品世界に踏みこんでいきましょう。すべての作品を取り上げることはできないので、今回わたしが再読した何編かの小説について感想を述べてみたいと思います。
では、今回の話はこのへんで。
関根 均 (せきねひとし)
1960年生まれ。 慶応大学卒業。専攻は国文学。2010年日本人間学会に入会。現在、研究会員として人間学の研究に取り組んでいる。
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