日本人間学会の人間学とは

当学会の人間学は、人間学の開祖と言われるマックス・シェーラーの哲学的人間学とその兄弟子にあたるヴィクトール・フランクルの「ロゴセラピー」を源流としている。フランクルの「ロゴセラピー」は、人間が人生の意味や価値を追求し得る精神的存在であるとしている。そして、当学会の創始者である高島博氏は、親交が深かったフランクル氏と何度も討論を重ねてその人間学を構築していった。

人間学構築の経緯

高島博氏は、医学は自然科学の一部でよいのか、医学が、人間のための人間の営みであるなら、その根底に哲学がないのはおかしいではないかと、哲学不在の医学のあり方について疑問を投げかけた。その深い思いから、人間について根本的に考え直そうという動機から人間学の確立を志すようになった。

高島氏の人間学構想は、当初容易に理解されなかったのだが、国内外の多くの有識者との議論の中で理解者が次第に増え、とりわけロゴセラピーのヴィクトール・フランクルとの度重なる討論の中で、今日の彼の提唱する人間学の構想が出来上っていった。

さらに氏は、人間学は実学であり、世に役立つ平易な学であるべきと、医学ばかりでなく、教育、法律、技術等の分野も視野に加え、実学人間学の構築にも尽力した。また、専門の医師の立場からは、西洋医学の、分析的研究法におけるデータ重視、薬の多用という治療方法に疑問を抱き、患者その人を診て、病も治し病人も治すという心身治療を実践した。
高島氏は、「身体」と「心理」と「精神」の相関によって起こる様々な病気に関する研究者でもある。

「人間学」の提唱

高島博氏は、日本における人間学の草分け的存在である。

氏の提唱した人間学は、生物学での人間存在へのアプローチを試みるとともに、近代科学が捨て去った哲学的人間観・世界観を復権している。またこの内容は、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピーを受け継ぎ発展させていったものである。

高島氏は「人間」というものに対し幅広い理解を試みようとすると同時に、今日の学問のあり方、姿勢に異議を唱えていた。即ち、あらゆる学問が科学万能主義の煽りを受けて、科学領域で研究が高度になるにつれ、専門化、細分化、断片化してくことになる。それによって一つの専門分野が他の専門と相通じることが困難になるだけでなく、学問自体が人間不在の研究になる恐れがあると痛切に感じていた。そのため、再び人間次元に立ち戻り、専門諸科学のみでは説明し尽くせない人間存在の問題を、「人間学」という「学際的」な場において、それぞれ共通の問題、つまり人間の「精神」を語り研究しあう人間学の必要性を説いた。

また、高島氏は、医学的側面、心理学的側面だけで人間を理解するのは難しい。つまり人間存在を多面的に捉え、教育学、法律学、経済学等さまざまなアプローチとともに芸術や音楽、宗教の理解も併せなくしては人間存在というものを解することは困難であるとも述べている。

宗教に関して論ずることもあり、アルベルト・アインシュタインの言葉「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」(「Science without religion is lame, religion without science is blind」)をよく引用した。これは、高島氏がアインシュタインの如く哲学を持つことの大切さを訴えていたためである。ただし高島氏自身の信仰については決して言及されることはなく、それはヴィクトール・フランクルとも共通している。