人間学の現在(21)

人間学

今回は『情然の哲学』第6章の解説です。

この章のタイトルは、「人生の目的」というもの。そしてサブタイトルは、「私」が存在する理由、というものです。

「人生の目的」が真剣に論じられるのは、人生論などの著作や宗教分野の著作においてでしょう。普通に生きているかぎり、わたしたちはこの問題について誰かと議論を交わしたりするようなことはありません。「人生の目的」は、人間なら誰もが考えるべき普遍的な問題である一方、実際には限られた領域においてしか議論されることのない問題でもあるのです。

では、なぜわたしたちは「人生の目的」について、日頃ほとんど考えたり話し合ったりすることがないのでしょうか。

この疑問に対するわたしの答えは簡単です。

考えてもわからないから、です。

わたし自身ずいぶん長い間、人生の目的という問題には万人に当てはまる普遍的な答えはないだろうと思っていました。

人々が自分の人生に設定する目標は千差万別のものであるはずですから、「普遍的な命題としての人生の目的」について考えるのは無理だと思っていたのです(目標が違うのに目的は同じだということはないだろうと思っていたのです)。

ところが、「情然の哲学」を学ぶことによって、この問題に関するわたしの考えは変わりました。

ですから、今回はおもに、そのあたりのことについて話してみることにしましょう。

サルトルの人間観

人生の目的について考える際、フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)が提唱した実存主義の考え方が参考になります。

たとえば、いまわたしの手元にハサミがあるとしましょう。

ハサミが存在する目的は、はっきりしています。

それは言うまでもなく、紙などを切るためです。

ハサミという存在には「紙を切る」という「本質」が内在しており、何も切れなくなってしまったハサミはハサミとしての存在理由を失ってしまいます。そうなると、人はそれを「壊れたハサミ」と言うことになるでしょう。

壊れたハサミはもはやハサミとは言えませんから(「ハサミを貸して」と言われて使えないハサミを差し出す人はいませんね)、ハサミは「切る」という本質を失った瞬間にハサミとしての実存も失ってしまうことになります。

つまり、ハサミの場合は、本質が実存に先立つ、と考えることができるわけです。

では、人間の場合はどうでしょうか。

ハサミに限らず、わたしたちの身の周りにある道具的存在はすべからくその本質によって実存している存在ですが、人間の場合は違うのです。

なぜかというと、わたしたち人間には「実存に先立つところの本質」なるものがないからです。

それでサルトルは、「実存が本質に先立つ」という命題を立て、結果的にそれが世の中から、実存主義の哲学と呼ばれるようになったのでした。

ただし、サルトルの実存主義は無神論を前提としています。人間を創造した神がいないので人間は実存的な存在だ、というわけです。

たしかに神がいないとすれば、サルトルの主張は首尾一貫しています。この哲学が戦後の日本において大きな流行を見せたのは、当時の知識人の大半が特定の信仰を持っていない人たちだったからでしょう。

「情然の哲学」は、サルトルの実存主義とは別の見解を提示していますが、神がいるにしてもいないにしても、わたしたち人間が自由な存在であることに変わりありません。

わたしたちは、行動の自由や意思決定の自由を奪われたときに苦痛を感じます。

ですから、誰にとっても「自由であること」は、とても大切なことです。

ただし、それが神によって与えられたものと考えるか、それとも偶然にあるものと考えるかによって、わたしたちの人生観はずいぶん変わってきます。

『情然の哲学』の第6章がこれまでの人生論と大きく異なるところは、「存在とは何か」という哲学の根本問題に独自の回答を提示したうえでの論議になっていることです。

では、「情然の哲学」は人生の目的、あるいは「私が存在する目的」についてどのような見解を提示しているのでしょうか。

第6章の論理の展開を簡単に見ていきましょう。

人間と万物、人間と神の関係

『情然の哲学』には「原初格」という術語が登場しますが、わたしのこの講座は広く一般の方々を読者層に想定しているため、ここではこの概念を、神ということばに置き換えて考えてみることにしましょう。両者はイコールではないにしても、「ほぼイコール」という関係にあるからです。

また、神と人間以外の存在を、ここでは万物ということばであらわすことにしましょう。それぞれの存在はその生存のあり方や形態などが違うため、同じカテゴリーのなかで考えることができないからです。

では、この三つの存在はたがいにどのような関係にあるのでしょうか。

まずは、人間と万物の関係について考えてみましょう。

『情然の哲学』は、両者の関係について次のように語っています。

人間を含むすべての生物は、遺伝子中にインプットされた他律的指示情報に則って身体の形態や能力が規定されているため、意識せずとも身体による自律的な生命維持が可能になっている。心臓を動かすことや消化吸収の段取りなどを考える必要はない。本能も個々の生物が後天的に学習したものではなく、初めから他律的に与えられたものだ。

また、人間にもそれ以外の生物にも「心」がある。身体は物質的実在として物理法則に従って他律的に存在するのに対し、心は外部からの支配を受けない自律した情感と理性の融合した精神的実在である。両者は異なる現れ方をしながらも一個の生命体を形成する物心一体の状態にある。アメーバのような単細胞生物であっても、快・不快などを感じつつ(情感)、何らかの選択を行っている(理性)、という観点からすれば、低レベルではあっても「心」があると考えられる。さらには物質でさえ、家族的四位構造としてその内部に情感性・クオリアと法則性・規定性を有しているということから「心」のような要素があると考えなければならない。

存在がこのような二重構造であるがゆえに、自然界は共有する「心」を通じて有機的な調和状態を確立することができ、人間と人間以外の存在においても愛による関係性を結ぶことが可能となると考えられる。

世界の根源(アルケー)が「情然」であることを考えるならば(そして存在の成立条件が「家族的四位構造」であることを考えるならば)、そこから生まれ出たすべてのものに「心」を認めるのは合理的な思考です。

常識的な意味での心ではないにせよ、動物・植物はもとより物質のなかにも心(に相当するもの)があると考えるのも、さほど珍しい見解ではないでしょう(日本に古くからあるアミニズムもこれに近い思想だといえます)。わたしたちがこの世界の森羅万象と愛の関係をもつことができるのも、それらすべてのものに心があるからだというわけです。

では、人間と万物の違いとは何でしょうか。

『情然の哲学』を読んでみましょう。

次に人間と人間以外の存在との相違点について。

まず、人間には自分を超えた視点から自分(自我)を意識できるような最高度の精神的な能力が備わっている。そういった意味では人間は「最初の自我」である原初格と同じ位置に立っているともいえる。一方、他の生物は心のレベルでいえば、原初格の自我が確立する以前、情感と理性がまだ曖昧であった状態がそのまま展開したものということになる。その一方で身体的な機能においては、運動能力や感覚器官の性能などむしろ他の動物のほうが優れている部分が多い。人間よりずっと長く生きる生物も少なくない。しかし精神的な能力にはやはり決定的な差がある。人間には、宇宙にあるすべてのクオリアに感応する感性があり、新たなクオリアを生み出す力もある。

もう一つの相違点は、人間と人間以外の存在では愛における立場が対極にあるということだ。すなわち「愛する立場(主体)=人間」と「愛される立場(客体)=人間以外の存在」の違いである。人間はあらゆる生命や存在と共に生きる立場にあるが、その価値は必ずしも他と同じではない。人間だけが自然や宇宙の価値を理解する高度な理性を有している。情然の哲学は、全生命全存在の中で、人間だけが特別な位置にあるということを認める立場にある。しかしその特権は、自然を思い通りに支配するためではなく、親のような立場で愛するためである。人間にとって自然は支配の対象ではなく愛すべき対象である。

この部分のすぐあとで、『情然の哲学』は旧約聖書の次の言葉を引用しています。

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」
(創世記 1章28節)

ここにあるように、「世界を治める」という観点から見た場合、人間と万物は対極の位置にあります。言うまでもなく、人間は治める側であり万物は人間によって治められる側です。

実際、この地球という星は現在、わたしたち人類に占領されていますね。遠い昔この地をわがもの顔で跋扈していた恐竜たちは絶滅し、いまは名実ともに、わたしたちがこの星の主人になっています。これは、人間の進化の過程でたまたまそうなったというものではなく、もともとそうなるべく定められていたというわけです。

そのあたりのところも、「情然の哲学」は聖書の思想と重なり合います。

では次に、人間と神の関係について考えてみましょう。

人間と神の関係について考えることは宗教の根本的なテーマであり、古くて新しい問題です。『情然の哲学』は、この歴史的な難問についてどのような見解をわたしたちに提示してくれているのでしょうか。

まず、次の箇所を読んでみましょう。

概念宇宙の進化と物質宇宙の進化を重ね合わせると、人間の出現は概念宇宙における原初格の確立と同じ位置に立っていると考えられる。原初格が概念的な「我と汝」の関係性の中で自我を意識したように、人間は実体的な「我と汝」の関係性の中で自我を意識する。そしてそれは、原初格の立場から見ると138億年の時を越えた「概念的・我」と「実体的・汝」の出会いでもある。

そして『情然の哲学』では、これに続く叙述のなかで非常に深い哲理が語られることになります。

わたしがへたな解説をするより、本文を読んでみるほうがいいでしょう。

原初格にとって人間は、実体的な「愛する汝(客体)」としての位置にあると同時に、概念的存在であった原初格が物理的実体として現れた「我」自体でもある。つまり人間は「身体を持った原初格(と同等の精神的実在)」であるともいえる。人間の心とは、本質的に原初格そのものでもあり、ゆえに人間の心と体が調和的に融合した状態は、原初格と人間が一つになっている状態と同じになる。心と体が不可分の関係であるように、原初格と人間も本来、分けられない存在なのだ。原初格を「神」とするならば、まさに人間は「神の子」であるということにもなる。それはまた、親としての「概念的自我」と、子供としての「実体的人間」の出会いでもあり、人間が子供を持つことで、その親子関係が無限に連続していく(原初格の精神史を追体験する)ようになる。

原初格があらゆる存在の始原として「親」の位置に立ち、愛もそこから始まるように、人間も万物に対して親の位置、つまり愛の主体に立っている。原初格が概念宇宙史の中で展開した愛のすべてを、人間は物質世界の中において実体的に展開していくことになる。そのため人間の精神的能力はまさに神のごとき無限の可能性と、完全な自由性を秘めていると考えられる。

以上が『情然の哲学』の提示する「人間と神の関係」です。

愛の理想と世界の創造

『情然の哲学』ではこのあと、人間の個性の問題、「私」の起源の問題、心の成長と教育の問題、心と体の関係の問題、善悪の基準の問題、性善説と性悪説の問題などが語られることになります。

心と体の関係の問題は、デカルト以来今日に至るまでさまざまに論議されている問題であるし、性善説と性悪説の問題に至っては、古代中国の諸子百家以来、実に二千数百年間も論争の続いている問題です。

これらはまさに究極的難問と言うべきものですが、これらの問題に対してわたしたちは、結局、「答えなんかありゃしないよ」という回答(回答の放棄)しか出して来ませんでした。

ところが、「情然の哲学」はこうした問題にも正面から対峙し、決着をつけようとしているのです。

すばらしい心意気ですね。

第6章の最後の小見出しは、「すべては愛の理想の実現のために」というものですが、愛というキーワードがそこに登場することで、「情然の哲学」の論理は一つの円環を形成することになります。

はじめにあったものが愛、途中のプロセスのなかにあるものも愛、最後まで存在し続けるものも愛、というわけです。

となると、この章で論じられている「人生の目的」も、また「私」が存在する理由も、その答えはやはり、愛、ということになります。

愛は一人では実現することができないので、わたしたち人間は家族のなかに生き、また社会のなかに生きるわけですね。

人生の目的の問題に関していちおうの結論が出たところで、今回の話はこのあたりにしておきましょう。

次回は第7章を解説します。5月の上旬に更新する予定です。

お楽しみに。

 


(関根均 せきねひとし)
1960年生まれ。慶応大学卒業。日本人間学会には2010年に入会。現在、当会の研究会員として人間学の研究に取り組んでいる。