3.結果 (4) 杉原千畝
リトアニア・カウナスの日本領事館副領事杉原千畝による命のビザの発給
1939年8月28日、杉原千畝はリトアニアのカウナスにある日本領事館の館長 (副領事) に着任した。そして翌年、1940年7月26日から (杉原, 1983, p. 302; 杉原, 1996, pp. 36, 41; 杉原・渡辺, 1996, p. 143; 渡辺, 2000, p. 288; 白石, 2011, p. 200; 白石, 2014, p. 82) カウナス領事館閉鎖に伴うカウナス退去の9月5日まで (杉原, 1996, p. 43; 杉原・渡辺, 1996, p. 145; 渡辺, 2000, p. 297; 白石, 2011, p. 231; 白石, 2014, p. 97)、日本政府の訓令に反する形で、日本までの通過ビザ、いわゆる「杉原千畝の命のビザ」を発給し続けた (杉原, 1993, pp. 14-47; 杉原・渡辺, 1996, pp. 19-26, 120-164; 渡辺, 2000, pp. 227-303; 杉原・杉原, 2003, pp. 30-96; 白石, 2011, pp. 181-235; 北出, 2012; 白石, 2014, pp. 67-99; 櫻田, 2015, pp. 66-113; 北出, 2020; 古江, 2020, pp. 44-47, 63-77; 石郷岡, 2022, pp. 287-333)。また自身が発給したビザに関する杉原千畝自身の手記が公表された (杉原, 1983)。
杉原千畝自身の言葉として「(通過ビザ発給について) 苦慮の挙句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました」という決断が残されている (杉原, 1983, p. 301)。また、杉原千畝は岐阜県加茂郡八百津町出身であった。18歳で岐阜県大垣市の樋口家に養子に入った樋口季一郎と同郷となったことで、杉原は樋口に対して親近感を抱いていたようである (櫻田, 2015, p. 96)。その樋口季一郎がオトポールでユダヤ難民を救済したことが、杉原の決断に少なからず影響を与えていた (同上, p. 97)。
カウナスでは、ユダヤ人の少年ソリー (手記を残している. ソリー・ガノール [Solly Ganor]. 命のロウソク. 日本人に救われたユダヤ人の手記. 1997. 白石, 2011, pp. 181-192; 石郷岡, 2022, pp. 321-332) との出会い、またカウナスに開設されたユダヤ人難民救済委員会の代表ゾラフ・バルハフティク (Zorach Barhaftig. 書籍: 日本に来たユダヤ難民. 2014. を残している. 杉原, 1993, pp. 22-24; 渡辺, 2000, pp. 273-275, 284-285; 山田, 2013, pp. 113-116; 石郷岡, 2022, pp. 203-222, 227-228, 232, 236-238, 243-259) との連携、さらに通過ビザの行先国として南米のオランダ領キュラソー島またはスリナムとすればいい、というアイデア (いわゆるキュラソー・ビザ) を示した駐カウナス・オランダ名誉領事ヤン・ズバルテンデイク (Jan Zwartendijk. 杉原, 1983, p. 299; 杉原, 1993, p. 24; 杉原・渡辺, 1996, p. 141; 渡辺, 2000, pp. 283-285; 白石, 2011, pp. 202-203; 櫻田, 2015, pp. 105-106; 北出, 2020, pp. 90-115; 古江, 2020, pp. 74-77; 石郷岡, 2022, pp. 223-238) など、杉原千畝に命のビザの発給を決断させ、成功させるための貴重な出会いがあった。
杉原千畝から日本通過ビザを発給されたユダヤ難民は、リトアニア・カウナスからモスクワを経てシベリア鉄道にてウラジオストクへ達した。そこから福井県敦賀港へ船便で渡り、神戸へ (一部は横浜へ) 移動した。神戸にはユダヤ人協会という頼りになる組織があったからである。なお難民の一部はヒグチ・ルートを通り、満州国を経て、日本に達した。
駐ソ連大使建川美次による満州国通過ビザ発給
そのヒグチ・ルートの安全を保証するために、満州国通過ビザを発給したのが、駐ソ連大使建川美次 (たてかわ・よしつぐ) であった (櫻田, 2015, pp. 188-191; 北出, 2020, pp. 138, 149-166; 古江, 2020, pp. 79-80)。また、建川は杉原千畝の日本通過ビザの保証を与え、ウラジオストク・ルートの安全も保証した。それだけでなく、建川自身がモスクワの日本大使館でユダヤ人難民に日本通過ビザを発給した。つまり、杉原の命のビザは駐ソ連大使建川によって確実なものとなったのである。
1940年8月頃から、杉原の命のビザを持ったユダヤ人難民がウラジオストクへ到着し始め、その数が増えてきた。ソ連政府はこの状況に対応するために、別ルート (ヒグチ・ルート) を活用することを考え、 駐ソ連大使建川に、領内にいる約800人のポーランド避難民 [ユダヤ難民] について、シベリア鉄道を使って、その一部を満州国の満州里経由で通過させることを提案した。そのため、建川に満州国の通過ビザ発給を斡旋するよう依頼した (古江, 2020, pp. 79-80)。それを受けて、 建川が外務省に満州国通過ビザを申請したところ、外務省からビザの発給は100名しか認めないとの返事があった (櫻田, 2015, p. 190; 古江, 2020, p. 80)。これに対して建川は「100人の受け入れでは少ない。杉原ビザの発給枚数と整合性がとれないことを、どう扱えばよいか」と猛烈に抗議した (櫻田, 2015, p. 190)。そして独断で満州国通過ビザを発給した。
さらに、外務省の「今後は、モスクワの日本大使館以外では難民に通過ビザを与えてはならない」という新しい方針に対して、建川は「実害なき者は従来どおりビザを当てるよう再審議すべし。新しい取り扱いの決定は実情に即していない」と批判の返電を行い、建川はまた独断で杉原ビザに証明を与えた (同上, pp. 190-191)。
また建川はモスクワ日本大使館で日本通過ビザも発給した。歴史にほとんど知られていないが、ユダヤ難民の女性リスシェルが、1941年3月8日に、モスクワの日本大使館にて建川から直接日本通過ビザを発給してもらったこと、ウラジオストクに達したのち、敦賀へ上陸、その後、神戸へ直行したことが、そのビザのコピーと共に立証されている (北出, 2020, pp. 150-155)。
駐ウラジオストク総領事代理根井三郎による入国ビザ発給
より重要な貢献を果たしたのが駐ウラジオストク総領事代理根井三郎 (ねい・さぶろう) である (渡辺, 2000, pp. 330-332; 山田, 2013, pp. 74-76; 櫻田, 2015, pp. 191-197; 北出, 2020, pp. 117-134, 137-138; 古江, 2020, pp. 76-77, 81-83)。根井は独自の判断に基づいて、日本の上陸港・敦賀への乗船許可となる杉原ビザの検印を進め (櫻田, 2015, pp. 194-197; 古江, 2020, p. 77)、本省の許可を得ず日本通過ビザを発給し (古江, 2020, p. 83; 北出, 2020, p. 121)、また渡航証明書の発給まで行った (古江, 2020, pp. 77, 88)。
1940年8月以降、シベリア鉄道経由でウラジオストクにユダヤ難民が杉原ビザを手に続々と入ってきた。根井はこの事態に困惑し、外務省本省に指示を仰いだが、本省の指示は、キュラソー・ビザを所持し「杉原のビザがあっても、日本への入国を許可してはならない」というものであった (櫻田, 2015, p. 194)。それに対して、根井は毅然と反論した: 帝国領事の査証を有する者について、遥々当地に辿り着き、単に第三国詐称が中南米行きとなりおるとの理由にて、一律に検印を拒否するは、帝国在外公館査証の威信より見るも面白からず (櫻田, 2015, p. 196; 北出, 2020, p. 123)。
根井は独自の判断で杉原ビザの検印 (乗船許可証) を行った。さすがに外務省も折れて、この条件を満たすすべてのユダヤ人難民の敦賀行き船舶への乗船が可能となった (櫻田, 2015, p. 197)。
また日本通過ビザについても、根井は以下のように抗議した: また査証を有せざる者に対しても単に避難民取締簡易化の見地よりのみ、当館にて査証の発給を停止するは、彼等がモスクワへ引返し得ざる事情よりするも、適当ならず (櫻田, 2015, p. 196; 北出, 2020, p. 123)。
ソ連当局が根井に対して日本通過ビザの発給を要請したことも相まって、根井は避難民への同情から「本省の許可を得ずに一定数の通過ビザを発給した」と述べたことが、1941年3月3日付新聞のアーカイブで確認された (古江, 2020, p. 83)。
さらに、杉原ビザを取得したものの、それが書き込まれたパスポートを紛失したユダヤ人学生の証言がある。以下、中日新聞社 (編)『自由への逃走 —杉原ビザとユダヤ人—』を引用した、古江 (2020, p. 121) から、再掲載する: 有頂天から絶望へ。それでも必死の思いでウラジオストクにたどり着き、日本総領事館に駆け込んだ。事情を説明したところ、責任者であった総領事代理の根井はビザを出し、その上、橇でホテルまで送ってくれた。「杉原ビザをもらった時は感激した。しかし、ウラジオストクではその何倍も感動した。」根井三郎のヒューマンな側面を物語る逸話である。
日本への入り口、敦賀港
このように、長い逃亡の道をたどり、ユダヤ避難民達は日本への入り口である福井県の敦賀港へ上陸した (渡辺, 2000, pp. 315-322; 古江, 2020, 84-88, 96-110)。ウラジオストクから敦賀まで、ジャパン・ツーリスト・ビュロー (JTB) が難民の海上輸送の支援を行った (北出, 2012, pp. 15-36; 古江, 2020, pp. 87-88)。当時、難民輸送の業務をジャパン・ツーリスト・ビュローに委託したのは、ニューヨークにあるウォルター・ブラウン社であった。その業務の主な目的は、アメリカユダヤ人協会から預かった支援金を、乗客名簿と支援金リストに従って確実にユダヤ難民へ手渡すことであった (北出, 2012, pp. 23-24; 古江, 2020, p. 87)。ジャパン・ツーリスト・ビュローの添乗員大迫辰雄は、大荒れの船内で船酔いと戦いながら、乗客名簿に従ってユダヤ難民を確認して行く作業の難しさを振り返っていた (北出, 2012, pp. 17, 22-25; 古江, 2020, pp. 87-88)。
敦賀港の上陸したユダヤ難民に対して、敦賀港の入国管理官が入国手続きを行った。その際、要件不備の避難民は、神戸の本拠地がある神戸ユダヤ人協会による身分保証によって上陸を認められた (古江, 2020, pp. 84-85, 93)。敦賀市民はユダヤ人難民へ温かい支援を差し出した (山田, 2013, p. 80; 古江, 2020, pp. 96-110)。
そのような中で「天草丸事件」が起きた (櫻田, 2015, pp. 197-198; 北出, 2020, pp. 46-47, 136-143; 古江, 2020, pp. 84, 98-99)。カウナスで杉原ビザは入手できたが、既に閉館していたオランダ領事館からキャラソー・ビザの発給を受けることができなかったユダヤ避難民74名が、1941年3月13日に天草丸で敦賀港に入港しながら、行先国のビザがないという理由で上陸を認められなかった。3日後にはウラジオストクへ戻ることになったが、ウラジオストクでもソ連当局から上陸を認められなかった。そのため、再度敦賀港を目指すことになり、3月23日に敦賀港に到着した。
再入港までの間に、神戸ユダヤ協会と小辻節三の尽力によって、駐神戸オランダ領事 N. A. J. デ・フォーフト (De Voogt) を動かし、駐日オランダ大使パプスト (Pabst) から74名にキャラソー・ビザを発給してもらうことに成功したのである (北出, 2020, pp. 135-148)。この見事な連携により、ユダヤ避難民74名は無事敦賀へ上陸することができた。その時の様子を避難民の一人ベンジャミン・フィンケルシュテインは「あの瞬間、敦賀の町がヘブンに見えました」と述懐している (古江, 2020, p. 99)。
兵庫県神戸市中央区北野: 命のビザの壁
敦賀港へ上陸したユダヤ難民は、鉄路で神戸、あるいは横浜へ向かった。特に神戸では神戸ユダヤ協会 (あるいは神戸ユダヤ共同体: The Jewish Community of Kobe [JewCom]) がアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会 (The American Jewish Distribution Committee [JDC]) を通しての救援金などを活動資金にして、ユダヤ難民を支援していた (古江, 2020, p. 93)。
その神戸ユダヤ協会がかつて存在した神戸北野の地に、2019年11月19日、その活動を記録する案内板『人道支援の地「神戸ユダヤ共同体」(神戸ジューコム) 跡地』が設置された (岩田, 2019)。その案内板によると、神戸ユダヤ協会がユダヤ難民へ行った支援を以下のように記載している: 神戸ユダヤ共同体は、ユダヤ難民に、住まいの提供から生活のための給付金、食料、衣服の支給、祖国や欧州の情勢の広報、日本の役所からの通知、手紙の貼り出し、そして、出国に関する相談、様々な心配事の相談まで、あらゆる支援を全員で献身的に行いました。この活動は、単に同胞愛というだけでなく、真の人間性の発露として永遠に伝えられるべきものです。
さらに案内板は、神戸市民がユダヤ人難民に温かい支援の手を差し出したことも記載されている: また、神戸の人々も、心を開いてユダヤ難民を受け入れ、昭和15年〜16年末にかけて、市内の各地で様々なあたたかい交流が生まれました。神戸の市民が、彼らに思いやりの心で接し、亡命先が見つかるまで親身に支援し共に生活をしたことは、ユダヤ難民の心に温かい思い出として記憶されることでしょう。
その神戸市民の温かい支援に対して、ジューコム役員であるレオ・ハニンは以下のような感謝の言葉を残している: 私はここでもう一度はっきりということができる。「神戸には、ユダヤ難民に対して、反ユダヤ主義はなかった。ここにあったのは、あたたかい思いやりとやさしさばかりだった」と。
神戸にたどり着いたユダヤ難民が厚い支援を受けたこと、およびユダヤ難民と神戸市民との交流については、神戸外国人居留地研究会理事岩田隆義によって詳細に記録されている (岩田, 2017)。
なお、神戸には、ユダヤ人共同体を含めて、多くの宗教共同体 (キリスト教各派、イスラム教、ジャイア教、仏教、神道など) が共存していることについて、関西学院大学キリスト教と文化研究センター (2013)、神田 (2013, 2017, 2020)、Sakitani (2023i) で詳しく紹介されている。また阪神大震災の折、たかとりカトリック教会における多民族グループの支援の貴重な報告が、小田武彦神父からなされている (小田, 2013)。
なぜ神戸に多様な宗教が共存できたのか、文化プロデューサー・神戸夙川学院大学元教授河内厚郎は以下のように指摘する: 神戸の魅力は、異人館など多国籍な雰囲気だけではない。宗教に対して最も寛容な街を古くから築いてきた点こそが、世界に通用する普遍的な価値だ (河内, 2020)。
河内は以前にも同じような指摘をしていた (河内, 2006)。この「宗教的寛容・普遍的価値」との指摘は本質的に重要である。他の研究 (たとえば、竹沢・他, 2020) では指摘できなかったことだからである。
なお蛇足ながら付け加えると、神戸外国人居留地研究会事務局 (西宮市高木東町)、関西学院大学 (西宮市上ケ原)、河内厚郎事務所 (西宮市津門) は、いずれも神戸ではなく、阪神間の地域中核都市、西宮に存在する。1868年に開港して、まだその歴史が浅い神戸よりも、万葉集にも武庫の津として記録されている西宮の歴史の方がはるかに古い。実際に、阪神間西宮に関する文化間対話・文化多様性 (山崎, 1987; 阪急沿線都市研究会, 1994; 「阪神間モダニズム」展実行委員会, 1997; 河内, 1994, 1997, 2000, 2015, 2017; 三宅, 1997, 2009; 竹村, 2012; 崎谷忍, 2022, 2024; Sakitani, 2023j) や宗教間対話 (遠藤, 1976, 1980, 1983, 1987, 1988; 河内, 2022; Sakitani, 2023k) の研究には稔りあるものが多い。
小辻節三によるユダヤ難民の支援
神戸のユダヤ難民を支援したのは神戸ユダヤ協会だけではない。むしろ神戸ユダヤ協会が最も頼りにして、困難な時に救いを求めたのは、日本人の小辻節三 (渡辺, 2000, pp. 307-314, 326-330; 山田, 2013, pp. 81-132; 櫻田, 2015, pp. 198-206; 古江, 2020, pp. 89-93) であった。
神戸のユダヤ難民を取り巻く問題として、以下の三つがあった。1. 難民と日本人との間に生活慣習、宗教観などの違いからトラブルが起きていること、2. 敦賀で行先国の入国許可証を持たない難民たちは、ウラジオストクへ送還されているが、ウラジオストクでも再上陸できず日本海を漂っていること [天草丸事件のこと]、3. 日本での滞在延長の許可がもらえず、そのままでは強制送還になること (古江, 2020, p. 90)。
一つ目の問題については小辻がすぐに対応することで、改善が得られた。二つ目の天草丸事件については、既に示したように、神戸ユダヤ協会と小辻が、駐神戸オランダ領事 N. A. J. デ・フォーフトに働きかけ、駐日オランダ大使パプストからキャラソー・ビザを発給してもらうことで、決着した (北出, 2020, pp. 135-148)。
三つ目の滞在延長問題については、神戸ユダヤ協会と小辻だけでは解決できない、難しい問題であった。
外務大臣松岡洋右による日本滞在期間の延長のための示唆
そこで、小辻は、東京の外務省に出向き、満鉄時代の上司で、その後外務大臣になっていた松岡洋右に直訴することにした (渡辺, 2000, pp. 326-330; 山田, 2013, pp. 89-92, 112-113; 櫻田, 2015, pp. 202-204; 古江, 2020, pp. 91-92)。小辻の必死の訴えに対して、松岡は立場上、公式にはユダヤ難民を支援することはできないが、小辻に個人的なヒントを与えた (渡辺, 2000, p. 328; 山田, 2013, p.91; 櫻田, 2015, p. 204; 古江, 2020, pp. 91-92)。松岡は以下のように答えたのことである: 一つだけ可能性がある。ユダヤ難民のビザを延長させる権限は、神戸の自治体にある。自治体の行うことに政府は基本的に関与しない。地方自治体に任せっぱなしだ。もし、君が自治体を動かすことができたなら、外務省はそのことを見て見ぬふりをしよう。それは友人として約束する (山田, 2013, p.91)。
杉原千畝研究者・渡辺勝正は、別の視点、つまり制度的な面から、以下のよう説明している: 敦賀港の場合は、神戸にある内務省兵庫県警保局外事部が管轄し、また出先機関の福井県が上陸検閲を担当する。敦賀で外務省の「通過特許」から、内務省の「入国特許」に効果的に切り替えられることになるのである (渡辺, 2000, p. 326)。
松岡洋右は、ユダヤ難民の滞在延長問題について、この制度的な重要な点、つまり外務省管轄から内務省管轄へ切り替わるという重要なことを、かつての部下であった小辻に教えたのであった。外相として難しい立場にある松岡が、自律的に考えて、ギリギリの点でユダヤ難民の救済に当たる知恵を小辻に授けたのであった。
この松岡のユダヤ人に対する温情は、小辻によって報告されている。後日、1941年5月、小辻は、東京で神戸のユダヤ人難民代表が海軍司令部で尋問を受けた場に、通訳として同席した、その際に、外部大臣松岡に再会した。その松岡は以下のように述べた: 日本人は温情をもって諸君を遇します。我が国に住む限り、一切の心配は無用です (山田, 2013, p. 112)。
小辻節三は、松岡が示唆した便法を活用するために、神戸の警察署に向かい、警察幹部を接待に招くことで人間関係を築いた。そうすることで、警察幹部から「10日間のビザを一回につき15日延長するという許可」を引き出し、「申請を数回すればユダヤ難民たちは長期の日本滞在が可能」になった (山田, 2013, p. 99; 櫻田, 2013, pp. 205-206)。このように、小辻節三が外務大臣松岡を巻き込んで尽力したことは、神戸のユダヤ人難民にとって大きな救いとなった (山田, 2013, pp. 95-101; 櫻田, 2013, pp. 205-206)。
ユダヤ難民たちは、神戸や横浜から、アメリカ、カナダ、中南米、オーストリア、満州、上海などに向けて出港した (山田, 2013, p. 333)。アメリカとの開戦に備えた日本政府は、行先国が決まらないまま神戸に残っていたユダヤ難民を、1941年9月末日をもって、ビザが必要のない上海の日本租界地へ移送する方針を固め、1941年9月17日、ユダヤ難民を乗せた最後の船が神戸から上海へ向けて出港した (古江, 2020, p. 95)。
このように、リトアニア・カウナスで杉原千畝が発給した命のビザは、建川美次、根井三郎、小辻節三、松岡洋右という、自律的な判断ができる人々による人道的行為によって、引き継がれてきたのである。杉原以外の建川、根井、小辻、松岡などの人道主義者によるユダヤ人救済が、歴史に埋もれることなく、記憶される必要がある。
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