人間学の現在(16)

人間学

前回の講座では、比較思想の観点から「情然」の概念の有効性について考えてみました。

その結果、「アルケー=情然」という仮説を立てても論理的な矛盾は起こらず、そればかりか、この概念は、古今東西の諸思想に対して多くの接点をもっていることがわかりました。

今回は、この思想の有効性をさらに検証するため、科学的な観点から「情然」について考えてみることにします。

とはいえ、『情然の哲学』自体が科学的な見地から自説を展開しているため、わたしがここで同じような説明をする必要はありません。

それに、わたし以上に今の科学に通じている人には「釈迦に説法」になりますから、今回のわたしの話は、理系の分野をあまり学んでいない方のためのものになります。

ミクロの世界の常識

 物質の構造がどのようなものになっているかについては、ほとんどの人がご存知のことでしょう。

中学の理科の教科書を開いてみると、いまの子供たちは、中2のときに分子や原子について学んでいることがわかります。東京書籍発行の『新しい科学』では、全部で4つある単元のうち、最初の単元が「化学変化と原子・分子」となっています。

そして、この単元は5章からなり、それぞれの章は、「物質のなり立ち」・「物質どうしの化学変化」・「酸素がかかわる化学変化」・「化学変化と物質の質量」・「化学変化とその利用」というタイトルになっています。1章が物理の内容で、2章以降が化学の内容になっているわけです。

また、単元のはじめのページには「周期表」が掲載されており、解説欄には次のような説明があります。一部を引用しましょう。

私たちの身の回りの物質は、約1億種類をこえるといわれている。そして、これら全ての物質は、周期表にある原子の組み合わせによってできている。(p11)

わたしも学生時代にこの周期表を覚えた記憶がありますが、今のわたしがこの表を見て興味深く思うのは、「くわしい性質がわからない」というカテゴリーに分類されている元素が19個もある点です。現代の科学力をもってしても原子のすべてが解明されているわけではないという事実は、自然界の奥の深さを感じさせてくれますね。

また、それぞれの原子は、個別かつアトランダムに発見されたものであるにもかかわらず、最終的には一つの表に整理されてしまうという点も、不思議といえば不思議です。

このように秩序ある原子たちの並びを眺めていると、この世界の出現にはあらかじめ何かしらの設計図があったのではないかと疑ってみたくなります。この世界が偶然存在していると考えた場合、なぜ原子たちがこのようにきちんと整列できるのか、その理由がわからなくなるからです。

中2の理科の教科書の「物質のなり立ち」の章を見てみると、ミクロの世界の基本的な事柄がわかりやすく説明されています。金を電子顕微鏡で観察するとたくさんの粒子の並びが確認できる、といった例を入り口として、物質をつくる最小の単位についての説明がはじまります。

まずは、はじめに原子説を提唱したドルトンという科学者の紹介があり、続いて、原子の三つの性質についての説明があります。

原子はその種類によって質量や大きさが決まっており、それ以上分割することができず、また、ある原子がほかの原子になったり、消滅したり、新しくできたりすることはない、といった説明です。

このあたりは、「もしもそうでなければこの世界は大変なことになってしまう」という常識から考えても、十分に納得できる事柄です。

たとえば、もしも銅の原子が何かの操作によって金の原子に変貌するとすれば、それはいわゆる錬金術ということになります。

錬金術なるものが何かの装置で可能になるのであれば、この世界の秩序はまたたくまに崩壊してしまうでしょう。

歴史上にあらわれたさまざまな錬金術がことごとく失敗したのは、人類の平和と安全にとってむしろ喜ばしいことでした。

わたしたち人間がどのように手を加えても原子Aは原子Aであり続けるという物理法則が根本にあるからこそ、わたしたちは安心してこの世界に生存していられるのです。

一部の人たちの利己心によって原子Aが原子Bに勝手に変えられてしまうようであれば、世の中は大変なことになってしまいますね。

ただし、化学の分野は、歴代の錬金術師たちによるさまざまな実験によってめざましく発展したわけですから、錬金術の試み自体は、結果的には大いに有益だったといえます。

教科書ではそのあと、原子1個の大きさはどれくらいなのかという話に進みます。銀の原子の直径を2億倍すると直径およそ6センチのボールになり、そのボールをさらに2億倍すると地球とほぼ同じ大きさになる、という説明があります。中学の教科書だけあってとてもわかりやすい説明です。

原子についての基本的な性質を学んだあとは、原子の種類についての学びがはじまります。現在、118種類の原子が確認されているということですが、これらの原子はその性質によってグループ分けのできること(金属や非金属など)などが説明されています。

そして、元素を一定のルールに従って整理した周期表についての説明があり、そのあとに、原子の組み合わせについての話、すなわち分子についての話が続きます。

金や銀のように、原子は単体でも分子になって物質を形成しますが、水や二酸化炭素のように、複数の原子が結びつくことで一つの分子となり、その分子が集まることで物質を形成することもあります。化学式・化学変化・単体・化合物などのキーワードもこの単元で学ぶことになります。

そして中2の理科では、このあとは化学の分野の学びに入っていきます。

次に、中3の理科の教科書を覗いてみましょう。

目次を開いてみると、ミクロの世界に関する学びは、こちらもはじめの単元にあります。中2ではさまざまな化学変化について学びましたが、中3では「イオン」という用語が登場し、化学変化の仕組みをイオンの観点から学ぶことになります。

「ゆとり教育」の時代には中3の理科から「イオン」が消えてしまい、「おやおや」と思っていましたが、その後、「イオン」は教科書に再登場するようになりました。

電荷を帯びた原子のことをイオンと呼ぶわけですが、原子がなぜ電荷を帯びるのかというと、原子は一個の「粒」ではなく、原子核のまわりを電子が飛翔しているからです。原子核を太陽に見立ててみると、太陽系は一個の巨大な原子のようにも見えてきます。どちらも球形の円環運動という点では同じなので、このあたりも自然界の不思議さを感じさせてくれる事柄です。

東京書籍の中3の理科の教科書には、22ページに「ヘリウム原子と原子核の構造」の模式図が掲載されています。電子や陽子や中性子の存在が視覚的にわかるようになっており、便利な模式図ですが、素粒子についての説明はありません。「原子核の陽子と中性子は非常に強く結びついているので離れない」というところで、中学でのミクロの世界の学習は終わりです。そして、イオンについて学んだあとは、酸やアルカリの性質をイオンによって理解する化学分野の学びへと進んでいきます。

高校で学ぶ素粒子の世界

 高校の課程に入ると理科の教科書は格段に難しくなり、「義務教育ではないのだから遠慮はいらない」といったスタンスの叙述になります。「嫌ならやめてもいいんだよ」といわんばかりのそっけなさです。高校の教科書を中学生に見せるとその難解さにみなショックを受けますが、物理や化学の教科書などはその典型的なものでしょう。

ただ、世界の謎を解き明かしたいという向学心を持っている人には、高校の理科の教科書はとても魅力的です。

では、東京書籍から出ている最新の物理の教科書を覗きながら、「アルケーの問題」について引き続き調べていきましょう。

令和4年2月10日発行の『改訂物理』の目次を開くと、1編が「さまざまな運動」、2編が「波」、3編が「電気と磁気」、4編が「原子」という構成になっています。4編の2章のタイトルは「原子と原子核」であり、この章はさらに五つの節(「原子の構造」・「原子核」・「原子核の崩壊」・「核反応と核エネルギー」・「素粒子」)に分かれています。ここでは最後の節の「素粒子」の項目を覗いてみることにしましょう。

素粒子とは、「それ以上小さな構造のない基本的な粒子」(p434)を意味しますが、陽子や中性子などの核子もクォークによって構成されているため、物質の最小単位ではありません。では、物質の最小単位はクォークなのかというと、そうでもないようです。なぜかというと、クォークにもさまざまな種類があるため、「クォークをクォークたらしめているクォーク以前の何かあるもの」の存在が想定されてしまうからです。

実際、この教科書にも次のような説明が載っています。

これまで見てきた素粒子の中で、物質を構成する素粒子であるレプトンとクウォーク、そして力を媒介する粒子であるグルーオン、光子、WボソンとZボソン、さらに、これら粒子に質量を与えるヒッグス粒子を含めた素粒子理論を標準模型という。しかし、基本となる粒子の数が多いことや、重力子が含まれていないことなどから改善点が考えられており、標準模型を超えた物理に関する理論研究や実験が現在活発に行われている。(p441)

つまり、物理学の分野においてアルケーの問題はまだ解決していない、というのが、この教科書の結論になっているわけです。

紙数の関係からここではこれ以上の説明を控えますが、この教科書には巻末に興味深いコラムが掲載されています。「ダークマターとダークエネルギー」というタイトルの記事ですが、ここには現時点での物理学の到達点がわかりやすく説明されているので、少し長くなりますが、全文を引用してみることにしましょう。

世界の振る舞いを記述する言語が数学だとすれば、物理学はその文法にあたる。高等学校では、現象を理想化し分割したときに重要となる基礎過程に従って独立した章分けがなされている。基礎過程の理解が大切であることは言うまでもないが、それらを組み合わせて世界そのものを理解する試みが物理学の根底を流れる目標であるということも忘れないでほしい。

ニュートンの第2法則と万有引力の法則を組み合わせれば、太陽のまわりの惑星の運動が正確に記述できる。私たちが地上で感じる重力が同時に天体世界の振る舞いをも決定するというこの事実は驚きに値する。まさにスケールや状況によらず世界は物理法則に従っていることを示す端的な例だ。実際、宇宙の誕生と天体諸階層の形成・進化に代表される宇宙史は物理法則を駆使することによって飛躍的に理解が進みつつある。にもかかわらず、宇宙は何からできているのか、という基本的な謎は未解決のままだ。

20世紀の物理学は、地上の物質はすべて元素(より正確に言えば、クォークやレプトンと呼ばれる素粒子)からなっていることを明らかにした。当然、宇宙に存在するすべての物質も同じく元素からなっていると予想される。しかし実はそうではないらしい。

1970年代にはすでに、天文観測によって宇宙の大半の成分は直接光は出さない「見えないもの」であることが知られていた。しかしそれらは地上の物質と同じく元素からできているものと考えられていた。しかし、1980年代になって、この「見えないもの」が元素だとする仮説と矛盾する観測データが次々と現れる。その結果、それらは通常の元素ではなく、万有引力の法則には従うものの光を出さない物質であると考えられ、ダークマターと呼ばれるようになった。

さらに、天文観測の精度が向上するにつれ、宇宙は元素とダークマターだけでは説明できないことがわかってきた。現在では、宇宙の大半を占めているのは、「光を出さず互いに反発力を及ぼす性質をもった存在」だと考えられており、ダークエネルギーと名付けられている。

このダークという形容詞は、光を出さず直接見えないという意味だけではなく、正体が不明であるという意味も表す。最新の観測データからは、宇宙の全エネルギーの約7割がダークエネルギー、約4分の1がダークマター、残りが通常の元素であるとされている。つまり、宇宙の95%以上はその正体がまだ特定されていないのだ。

ダークマターは、質量をもった未知の素粒子であるというのが通説であり、現在世界中で直接検出を目指した地下実験や大型加速器実験が行われている。一方、ダークエネルギーについては、アインシュタインが一般相対性理論を提唱した直後に導入した宇宙定数であるという説、空間からすべての物質を取り除いた後に必然的に残る真空自体がもっているエネルギーのようなものではないかとの説などがあるものの、いずれも決定的な証拠はない。そのため、ダークエネルギーの正体の解明にはさらなる天文学的な観測が不可欠なのだ。現在、ハワイ島のマウナケア山頂にある国立天文台のすばる望遠鏡を使って数十億年以上過去の銀河数百万個を観測し、ダークエネルギーを解明することを目指した国際プロジェクトが進行中である。(p448〜p449)

わたしの子供時代には科学万能主義の風潮があり、科学の発展に対する素朴な期待をもつ人が多かったように思います。ところが、古典力学や量子力学ですべての現象が説明できるほど宇宙は単純なものではありませんでした。探求が進めば進むほど、想定外の問題が新たに発生し、そのために新しいモデルを考案しても、それと矛盾するデータがまた観測されてしまう。このような試行錯誤をわたしたちは今も続けているわけですが、近年では、しばらく前から話題になっていたダークマターやダークエネルギーという用語が、高校の教科書にも登場するようになりました。

この正体のわからない物質やエネルギーは宇宙空間の全領域に浸透しているはずですから、わたしたちもそれらを含めた世界に生存していると考えられます。とするなら、それらはわたしたちの身体のなかにも浸潤しているはずであり、わたしたちは常日頃、「未知なるもの」とともに生きていることになります。

「情然の哲学」の立場から考えてみると、じつはこのような宇宙観も別段不思議なものではありません。「はじめにあったもの」が「情然の場」であるなら、そこから物質として生まれ出たものが元素であり、情然の状態のまま存在しているものがダークマターやダークエネルギーではないかと考えられるからです。このあたりの考察はいまのところわたし個人の空想に過ぎませんが、もしかすると、「あたらずといえども遠からず」といったものであるのかもしれません。

マスターキーとしての「情然」

 このあたりで、「情然」の概念についての考察をまとめてみることにしましょう。

はじめに、『情然の哲学』のなかでの「情然」の説明を確認しておこうと思います。二箇所ほど引用してみます。

真空については後ほど詳しく述べることにして、ここでは物質も真空も、宇宙に存在するものすべてが関係性のゆらぎの中にあるということ、さらには関係性の構造こそ、存在の本質であるということを確認しておきたい。現代物理学において存在の最小単位は量子とされていて、量子とは古典的な一個の点状粒子ではなく「量的な広がりと関係性という内部構造をもったエネルギーのゆらぎの場」であるということだった。量子論をさらに一歩進めた「超弦理論」においても、物質の根源を点状の粒子ではなく「振動する弦(ひも)」であるとしている。ようするに、長さ(広がり)とゆらぎが、存在の根本要素であるということだ。(p94)

存在の最小単位は物質(極微の粒)ではなく、目には見えない(機械によっても観察できない)「関係性の構造」こそが存在の本質であるというわけですね。

もう一つ見てみましょう。

情然の場を現代物理学の言葉で表現すると「真空エネルギーのゆらぎの場」ということになる。宇宙誕生から一三八億年経った現在の物質世界をつぶさに観察し、そこから因果関係を辿ってついに宇宙の始源に行き着き、そこで宇宙物理学者たちが発見したのが「真空エネルギーのゆらぎの場」なのであった。しかしこれまで述べてきたように、そこにはいわゆる「物質」はない。そもそも真空は「物質がない」というような意味だし、「ゆらぎ」も「場」も、物質というより現象や状態、広がりそのもののことである。素粒子物理学者たちが物質の極小領域で見たのも同じ「物質がない世界」だった。

いまこの世界にあるもののうちで、宇宙始源の時からずっと存在し続けたもの。物質ではなく、形も重さもなく、なにものにも規定されず、そしてあらゆるものを生み出す源となりうるもの。それこそまさしく情然の場であり、そこで情感性がゆらぐことによって生じる波や渦としての「クオリア」であった。(p104)

そのなかに何もない真空というものはない、というのが、現代物理学の見解ですから、「そもそも空間があるとはどういうことか」という哲学的な問題がそこから派生することになります。

このあたりの問題になるとかなり専門的になってしまいますが、「情然の哲学」では、「存在」と「非存在」が未分化であるような存在の場のことを「情然の場」と定義したわけです。

これはもちろん、物理学の概念ではなく、科学と哲学と宗教の学際的な研究の結果導き出された概念であるといえます。

いずれにしても、世の中にはすごいことを考えてしまう人がいるものですね。

「はじめにあったもの」とは何か。そんな問題は科学者や哲学者に任せておけばいい、というのがわたしたちの常識的な発想ですが、新しい概念まで拵えてこの問題に答えを出そうとする人が、世の中にはいるのです。そんなひとが考案した情然の場という造語も、言い得て妙です。この概念の考案者は何か普通でない境地に入って、常人には想像のつかない悟りを得たひとなのかもしれません。

では、このあたりで全体のまとめに入ることにしましょう。

「情然」という概念はどうやら、科学や哲学や宗教の扉を自由に開けることのできるマスターキーのようなものらしい。これまでの考察により、そんなことがおぼろげながらわかってきました。

簡単に言うと、ドラえもんの四次元ポケットの中から出てきたような概念です。

ただし、このツールがどれくらい役に立つのかということは、やはり実際に使ってみなければ分かりません。

そこで、次回からは、「はじめにあったもの」が「情然の場」であるという仮定の上に立ち、宇宙生成のプロセスや人間存在の意味について考えていきたいと思います。

たとえば、人間は男と女に分かれて存在していますが、それはなぜなのでしょうか。また、人間にとって「家庭」とは何なのでしょうか。そして、そもそも、人間の「幸福」とは何なのでしょうか(おそらくほとんどすべての人が「今よりも幸福になりたい」と思っているはずです)。

以後の講座では、人間学のそのような根本問題に対して哲学のメスを入れていくことになります。

新しい会員特典のお知らせ

最後に一つ、お知らせがあります。

この講座はすでに一年以上続いていますが、なかには、「人間学の現在」を毎月欠かさず読んでいる方もおられるようです。

それはそれで、とてもありがたいことですが、この講座との出会いがきっかけで当会に入会された方に対して、当会ではこれまで、何かの学びのメニューを提供したりすることはありませんでした。

しかし、それではあまりにも不親切ではないかという声があがるようになり(わざわざ一般会員を募集しているわけですから)、このたび、改善策を検討することになった次第です。

検討の結果、今月から次のような会員特典を新たに追加することになりましたので、お知らせします。

今後は、入会された方にもれなく、人間学のテキスト(菅野盾樹著『人間学とは何か』)を贈呈いたします。

このテキストは、人間学の入門書として定評のあるもので、一読すれば人間学のおよそのことがわかるようになっています。

ただし、かなりレベルの高い書物であるため、独学は難しいかもしれません。

そこで、入会した月を含め、四カ月の間、当会の有志の研究会員がメールのやりとりというかたちで、初学者の方の人間学の学びをサポートすることにしました。

具体的に言うと、『人間学とは何か』を読んだ感想をメールで送っていただき、それに対して当会の先輩会員が返信をする、という企画です。

もちろんこれは、研究会員の方々のボランティアサービスなので、無料です。この道の先輩として、何かわからないことがあれば基礎から丁寧にご教示しましょう、というわけです。

わたし自身ももちろん、一人の研究会員としてこの企画に参加しています。

このサービスは当分の間続ける予定ですが、ご不明な点等ありましたら事務局までお気軽にお問い合わせください。

なお、メールによる学びのサポートは過去に会員登録をした方でも有効ですので、ご希望の方はお申し出ください。

お知らせは、以上です。

では、今回の話はこのへんで。