人間学の現在(14)
今回は、「情とは何か」という問題をテーマに、わたしが日ごろ考えていることを話してみたいと思います。
喜怒哀楽の感情は、人間なら誰もがもっているものですが、心のなかでたえず揺れ動いている「情」とは何なのかとあらためて考えてみると、簡単には答えの出ない問題であることがわかります。
「情」と「心」のトートロジー
「情とは何か」という問題に対し、てっとり早く答えを知りたいのであれば、やはり国語辞典を引いてみるのがいちばんでしょう。
辞書はもちろん万能のものではありませんが、それでもなにかしらの探求の糸口はつかめるかもしれません。
そこで、「情」についていくつかの辞書を引いてみると、どれも同じような説明になっていることがわかります。たとえば、「情とは心の働きの一つである」といった説明です。その程度の説明であれば誰もがわかっていることですが、国語辞典ですからそれ以上踏み込んだ説明はありません。
ただ、「情」を説明するのに「心」の概念が必要であることはわかるので、今度は「心」を辞書で引いてみると、「知情意」の概念が説明のために使われていることがわかります。
となると、それはやはり、トートロジー(同語反復)ということになりますね。
わたしたちが物事を考える際に必要となるさまざまな概念の最も基本的なものは、辞書を引いてみると、大体はトートロジーになっています。たとえば、辞書で「存在」を調べると「あること」といった説明と出会い、「ある」を辞書で調べてみると、「存在すること」という説明に出会うことになります。要するに、たらい回しにされてしまうわけです。
(ちなみに、わたしたちはみな特別な学習をしなくても「存在」の意味をわかっていますが、このような状態のことを哲学では「存在了解」と呼んでいます)。
「情」と「心」の関係も同じ構造になっており、おたがいの説明におたがいの概念が必要とされます。もっとも、「そんなこと説明しなくてもわかるだろ?」というのが世間の常識ですから、「基本概念のトートロジー問題」というのは、あまり問題とされないわけです。
情の種類(もしくは様態)にはさまざまなものがありますが(喜怒哀楽はその代表的なもの)、その本質をひとことで言い当てる概念は、おそらく存在しません。辞書にあるように、それが「物事に感じて起こる心の働き」であることはわかりますが、では、その「働き」(より具体的には「動き」)こそが情の本質なのかというと、おそらくそうではないでしょう。
情の本質的な属性として「動き」があることは確かですが、それでも「何が動いているのか」という問題は残ります。もちろん、「動いているのは情だ」と説明したらトートロジーになってしまいますから、情という概念を、「心」や「物事」や「感じる」や「動き」の概念を使わずに説明することは、ほとんど不可能なのです(みなさんのなかに「わたしは説明できますよ」という方がいらっしゃったら、教えてください)。
そのため、ここではとりあえず、「情は情である」というトートロジーに甘んじることにして(すなわち情の本質論の問題は保留にして)、情の変化の問題について考えてみましょう。こちらのほうは、情の「本体」(そのようなものがあるかないかという問題も含めて、の話ですが)について考えるよりも易しいかもしれません。
先にも述べたように、喜怒哀楽というものは、誰もが日常的に経験しているものです。それは、つねにさまざまに変化している「情」の一つの様態であると考えられます。同じ「情」であっても、たとえば「うれしい」と「かなしい」は極と極を形成しており、存在論的に見ると、この二つの感情は相互補完の関係になっています。
このように正反対のものでありながら、なぜ根本的にはひとつのものであるといえるのかというと、それは、その主体がつねにひとつのものに定まっているからでしょう。簡単に言うと、それらは「わたしはうれしい」とか、「わたしはかなしい」と表現されるべきものなので、「情」はつねに「わたし」(自己意識)と共にあるという点で、一元的なものとして理解されるのです。
デカルトは、人間が普遍的にもっているものは「良識」だと言いましたが、そのとき以来、西洋の近代哲学の主流は「知の探求」となりました。ところが、その方向の哲学では人間性の根本問題が見落とされることになります。なぜかというと、人間の心の知的な機能を担保しているのは「情」の働きにほかならないからです(知と情の関係についてはのちほど詳しく説明します)。
ですから、「情」についての哲学的考察が本来ならもっとなされるべきであったのですが、おそらく、「情」と「心」のトートロジー問題が大きな壁となり、「情」の哲学はほとんど進展しなかったのかもしれません。
ただ、「情」の定義がトートロジーになるからといって、それがわたしたちにとって理解不能のものだというわけではありません。
それどころか、この「情」こそ、わたしたちが日ごろ直接的に経験しているものであり、ほかの何よりも確実に理解できるものであるといえるでしょう。
人間の特徴には「二足歩行」や「言語の使用」などが挙げられますが、新生児はそのどちらもできません。それでもやはり、赤ちゃんは人間ですね。
赤ちゃんがよく泣くのは、やはり赤ちゃんなりの情の働きでしょう。言葉を知らない赤ちゃんでも、母親にあやされれば笑います。「知」や「意」のない状態でもやはり心の働きはあり、その本質は「情の動き」ではないかと考えられるのです。
「ありのままの事実」としての「情」
ここでもう一度、「情」がもっている辞書的な意味の問題に戻ってみましょう。
「情」の類義語としてすぐに思い浮かぶのは、「感情」や「心情」ですが、「情」にはじつは、「心」とは関連のない意味も存在します。
たとえば、集英社の国語辞典を引いてみると、「情」についての五番目の意味として、「ありのままの事実」という説明があります。そして、そこには次のようなことばが例として挙げられています。
「情況、情状、情勢、情態、国情、実情、世情、敵情、内情」。
これらの用語を見れば、たしかに、「情」という漢字が「ありのままの事実」として使われていることがわかりますね。
たとえば、ある社員が「うちの会社の実情は」などといえば、外からは見えないその会社の「ありのままの事実」の話がはじまることになります。わたしたちは普段あまり意識しませんが、しばしば「情」ということばを「事実」や「真実」の意味としても使っているのです。
もう一つ例を挙げてみると、「ちょっと事情があって」という言い回しもそうです。「ちょっと事情があって今回は参加できません」などというフレーズは、つね日頃よく使われます。この場合の「情」は、「当人が直接関わっている事実」というニュアンスがあり、裁判では「情状酌量」ということばもよく使われます。
それからまた、現代社会を語るキーワードとしての「情報」ということばも、「事実を伝える」という意味として理解することができますね。
さて、わたしたちはこれまで「情」ということばの意味について考えてきましたが、では、「然」ということばはどういう意味なのでしょうか。
「然」についてもとりあえず、辞書を引いてみることにしましょう。
「情然」が意味するもの
広辞苑で「然」を調べてみると、「状態を表す語をつくる助字」という説明があります。説明はこれだけで、一行で終わっています。これは要するに、「然」そのものには特定の意味がないということですから、「情然」とは「情の状態であること」といったほどの意味になります。
念のため別の辞書を調べてみると、集英社の国語辞典には「然」についての詳しい用例があります。引用してみましょう。
「依然、毅然、厳然、公然、忽然、整然、騒然、断然、超然、陶然、突然、漠然、判然、憤然、平然、猛然、悠然、冷然、歴然」
このほかにも「〇然」という熟語は数多くありますが、ここに列挙した用例だけでも、「然」の意味と用法はおわかりでしょう。高校の国語の教師であれば、「これらの用語を使って短文を作りなさい」といった問題を出すかもしれません。もしもわたしにそのような問題が出されたら、わたしは次のような答案を作成するかもしれません。「日本人間学会が水準の高い学術団体であることは、歴然とした事実だ」。我田引水になり恐縮ですが。
「情然」という概念は勝本義道氏とその協力者たちが考案した造語ですから、辞書には登録されていません。そこで、わたしたちはこれまで、「情」と「然」の意味を調べてみることで「情然」の意味を探ろうとしてきました。
以上の考察によれば、「情然」とはどうやら、「情が情のままにある状態」のことであるようです。
「情が情のままにある」とはどういうことかというと、「心以前の心」を考えてもらえればよいでしょう。わたしたちの心においては、知情意は分離できないものとして存在しますが、その心から「知」と「意」を捨象すると「情然」の状態になります。当然のことながら、その心には「わたし」という自己意識はありません。
「情然」の「情」を人間の「心」を構成する最も基本的な要素と解すると、「はじめにあったもの」は人間の心と同じものとなり、わたしたち人間の一人一人の心が「小宇宙」になります。
また、「情然」の「情」を「ありのままの事実」と解するなら、「情然」は「ありのままの事実であること」という意味となり、「はじめにあったもの」の定義としてこれ以上ふさわしいものはないことになります。
いずれにしても、古代ギリシア時代の自然哲学者たちがあれこれと頭を悩ませた「はじめにあったもの」(宇宙の根源的な要素)の問題は、「情然」の概念の登場によって解決の糸口がつかめた(ように思われる)わけです。
自慢をするわけではありませんが、この新しい概念の発見は、日本人間学会の人間学研究のなかから生まれたものですから、小さな学会であるとはいえ、この学術団体は歴史的な意義のある仕事をしてきたのではないかとわたしには思えます。
最強のヒューマニズム思想
では、次の話に進みましょう。
感情の動きはわたしたちにとって最も直接的な経験ですから、「情」は人間の心のベースとなる働き(パソコンにおけるマザーボードのようなもの)であると考えられます。
もしも「はじめにあったもの」が「情然」であるとすれば、わたしたち人類は宇宙の主人公であると考えることができます。宇宙の根源と人間の心は何かしら深い縁で結ばれていることになりますから。
そういう意味では、「情然の哲学」はヒューマニズムの思想であるといえます。これまでにあらわれたどの思想よりも人間の価値を高く評価する点で、「情然の哲学」は、新しい時代のヒューマニズム思想だと考えることができるでしょう。
この点に関しては、たとえば共産主義の思想などと比べてみるとよくわかります。
マルクス・レーニン主義においては、人類の価値の源泉は「労働」にあることになっています。とするなら、労働のできない子供や老人は価値のない存在となり、「世の中には価値のある人間と価値のない人間が存在する」というおかしなことになってしまいます(もちろんこうした本音の部分は決して公言されることはありません)。
これではとても、ヒューマニズム思想とはいえませんね。
国家権力を行使して平然と「粛清」ができるのも、人間を「モノ」として考える世界観が背景にあるからでしょう。
左翼思想には「反動分子」という言葉がありますが(歴史の目的に逆行する人間、といったほどの意味です)、共産主義の世界ではこの主義に反目する人間は「反動分子」とみなされますから、それ自体が大きな罪となり、粛清のブラックリストに登録されてしまうことになります。
「情然の哲学」は、宇宙の本質と人間の本質がともに「情然」であると考える思想ですから(さらに言うと、動物たちの生態は「情然」そのものです)、真の意味で人類を解放する思想ではないかとわたしには思えます。
とはいえ、わたしたちはもちろん、「ありのままの事実」としての「情」について科学的な調査をすることはできません。何しろそれは、ビッグバン以前のビッグバンをもたらした宇宙の状態ですから。
しかしながら、その「情然」からどのようにして宇宙が誕生し、人類が出現したのかという仮説を立てることはできます。
宇宙生成のプロセスは現代の物理学が詳細に説明していますが、それがなぜ人類の出現につながったのかという問題については、ずっと無回答のままです。そもそも科学は「なぜ」を問うことができないし、宇宙の創造者としての「神」を設定することもできないからです。
科学と宗教を強引に接合しようとしても、やはりどこかにほころびが出てしまいますが、『情然の哲学』は、宇宙の誕生から人類の誕生までのプロセスを一貫した論理で説明しています。こうでこうでこうだからこうなのだ、というわかりやすい説明です。
わたしのこの講座では、『情然の哲学』の全体をさらに噛み砕いて解説することになりますが、ただその前に、もう少し「情然」の概念についての話をしておかなければなりません。
新しい学説が出てきた場合、学識の深い人であればあるほど、慎重な態度でそれを検討するものです。頭のいい人であればあるほど、着眼点は鋭いし、論理の展開も明晰です。では「アルケー=情然」という学説は、社会の第一線で活躍している知識人をも納得せしめ得るものなのだろうか。そのように考えてみると、比較思想の観点や現代科学の観点からも「情然」の概念を検討したほうがいいことになります。そのため、次回の講座では比較思想の観点から「情然」について検討し、その次の講座では現代科学の観点から「情然」について検討してみようと思います。
「早く先の話が知りたい」という人にとってはじれったい展開かもしれませんが、わたしの話はこの先、さらに面白いものになると思うので(「情然の哲学」を基本に据えるとそこから新しい世界像が描き出せるからです)、もうしばらく「情然」についての話におつきあいください。
昨年度の学会活動
最後に、お知らせがあります。
当会も今月(2022年4月)から新年度になりますので、昨年度の活動を振り返り、この場を借りて簡単に報告しておきたいと思います。
当会では昨年の2月から、月に一度、5人の有志が集まり、ウェブ上での討論会を開催してきました。
人間学に関するテーマはもちろんですが、人文科学の領域のみならず、社会科学や自然科学の領域にも及ぶ自由闊達な討論が実現し、わたし自身とても有意義な学びの機会となりました。
「真摯な対話によって真理を求める」という方法はソクラテスを祖とする哲学の王道ですが、当会においても、そのような交流の場を創り出すことができたわけです。
討論のおもな内容は議事録として保存してあり、なかなか興味深い資料になっているため、その内容も公開したらどうかという提案があり、今年度から会報を発行することになりました。
当会の会報は諸般の事情から、しばらく休刊の状態にありましたが、それを復刊させるというわけです。
これからは、会員の方に年に4回、PDFの添付書類のかたちで会報をお届けしますので、そちらも活用しながら人間学の学びを深めていただけたらと思います。
当会の人間学は哲学ですから、やはり独学は困難です。そのため、学びのコミュニティを広げつつ、今後も当会ならではの研究を進めていきたいと考えています。
「一般会員」の登録には、条件はありません。どなたでも登録できますので、みなさまの積極的な参加をお待ちしています。
では、今回の話はこのへんで。
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