人間学の現在(25)

人間学

本講座も25回になりました。

「情然の哲学」については前回までの講座でほぼ語り切れたように思うので、今回から新しい内容に入ります。

新しい内容といっても、これまでの話の流れと別の話をするわけではありません。

むしろ、一旦以前のテーマに戻り、あらためて「人間」について考えることが今回以後の講座の趣旨となります。

わたしはこの講座で、はじめに菅野盾樹氏の『人間学とは何か』を取り上げましたが、そこで語られている人間学の解説を途中で切り上げ、『情然の哲学』の話をはじめています。

なぜそうしたのかというと、そこに、わたし自身の人間学研究のテーマがあったからです。

菅野氏の『人間学とは何か』は、文字どおり、人間学の何たるかをわたしたちに教えてくれるすぐれた書物ですが、わたしにとってそれは、信頼できる先行研究ではあっても、研究のテーマそのものではありません。

もしもわたしのテーマが菅野氏の著作に全面的に依拠したものであるとすれば、わたしのこの講座は『人間学とは何か』の解説講座に終わることでしょう。

しかし、それではあまり面白くありませんね。

「人間学の現在」というからには、人間学の「現在」に関する、何かしら新しい知見がそこに含まれていなければなりません。

その新しい知見というのが、わたしの場合、「情然の哲学」だったわけです。

ただし、「情然の哲学」は人間学というよりも哲学です。

わたしがたまたま出会ったこの哲学は、人間学の未来を切り拓く基礎理論にもなり得るものだったので、この哲学を土台としながら新たな人間学を構築することはできないだろうか、とわたしは思い、そこに自身の研究テーマを見出していたのでした。

そしてそのテーマは、いまのわたしにも現在進行形のものなので、わたしはこの講座のタイトルを「人間学の現在」としたわけです。

そのため、わたしがこの講座のなかで『人間学とは何か』と『情然の哲学』を扱うことは、当初からの計画でもありました。

そして、わたしは前回までの講座で、その計画を7割ほどは達成してきたのではないかと思っています。

ホモ・シグニフィカンスの存在論

では、残りの3割とはどのようなものでしょうか。

それは簡単に言うと、「ホモ・シグニフィカンスの存在論」に対するわたしなりの批評です。

『人間学とは何か』と『情然の哲学』は、わたしの頭のなかで何かしら特別な化学反応を起こしてしまったようなので、そのあたりの事情を自己確認するためにも、わたしは今後、「情然の哲学」の観点から「ホモ・シグニフィカンス」について語ってみようと思うのです。

そうなると、それはわたし独自の人間学研究になるため、その実況中継を行うという点で、この講座はやはり「人間学の現在」になるわけです。

では、ここで再度、『人間学とは何か』の内容を確認しましょう。

まずは、目次を見てください。

まえがき
第1章 人間学の誕生 —ソクラテスの場合
第2章 人間学の基礎と方法
第3章 人間観の類型学からミニマム人間学へ
第4章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(1):身体
第5章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(2):言語
第6章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(3):心
第7章 〈人格〉としての人間
第8章 子供と大人
第9章 性を生きる人間
第10章 人生の意味と無意味
第11章 死
あとがき/事項索引/人名索引

最後の「人名索引」の下にある数字が218ですから、これはおよそ220ページの書籍になります。

分量はそれほどでもありませんが、文章の密度が非常に高いため、学識経験者でないと読むのに難渋する箇所も多々あるかと思います。

ただ、わたしたち人間が「人間学は難しい」とぼやくのも妙な話ですから、「普通の人が読んでわかる人間学の書物」というのもこれからは必要ではないかと思います。

そして、そのような人間学の著作を出すことが日本人間学会の役割の一つではないかとわたしは思っています。

さて、それはともかく、次にこの著作の概要を確認しましょう。

そのためには、「あとがき」にある次の箇所が参考になります。

筆者がこのテクストに盛り込んだ人間学の構想は、要約すれば以下のようになる。人間学とは、人間の自覚を基盤として成立する、人間の自己了解の知的表現に他ならない。人間学の部門は大きく二つに分かれる。

第一に、経験科学とのリエゾンによって人間の存在構造を明らかにする部門。筆者はこの課題に対しては、ミニマム人間学という見地から、人間を「記号機能を営む動物」あるいは〈ホモ・シグニフィカンス〉と捉えることを提案した。この意味で、人間学はとくに記号論的探究と密接な関係を保つべきだし、記号論が認知科学の分野に位置づけられるとすれば、当然ながら認知科学の研究動向につねに留意する必要がある。

第二に、人間の生き方を人間の存在構造からいわば自然に導かれる倫理学(一種の自然主義倫理学)によって吟味し基礎づけることが人間学の課題となる。

菅野氏は「人間学の部門は大きく二つに分かれる」と述べていますが、この見解に対してまったく異論はありません。人間学のなかには、「人間とは何か」という問題意識と「人間はどのように生きるべきか」という問題意識が含まれて当然だからです。

それがどのようなものであれ、わたしたち人間には「人生」というものが与えられています。たとえば、水槽の中に飼われている金魚たちは、命があるかぎりその空間をただ泳いでいればいいわけですから、「生存」はあっても「人生(魚生)」はない、と考えてよいでしょう。

それが証拠に、「魚生」ということばは存在しないし、かりにそのようなことばを作ったとしても、そのことばの意味を適切に定義することはできませんね。

このことは、魚にかぎらずほかの動物においても同じです。「人生」という概念は、やはりわたしたち人間の存在に限って成立するものなのです。

そのため、人間においては必然的に、「人生どうあるべきか」とか「いかに生きるべきか」といった問題が発生します。この問題に関する論議は古くから「人生論」の名のもとになされてきましたが(たとえばトルストイの人生論などが有名です)、20世紀に入るまで哲学の分野で公的に扱われることはありませんでした。

20世紀の初頭に「哲学的人間学」が台頭して初めて、「人生論」が哲学の主要なテーマとして扱われるようになりましたが、もしもその人生論が恣意的なものであるならば、それまでの人生論と何ら変わるところがないことになります。

そこで、「人生論」(もしくはその土台となる倫理学)以前の問題として、「そもそも人間とは何なのか」という「存在論の問題」の解明が必要不可欠な条件となるわけです。

菅野氏は、人間の存在論の問題に関して、マックス・シェーラーの類型学の業績を批判的に検討したうえで、ホモ・シグニフィカンスという概念を提案しています。

この用語自体はロラン・バルト(1915-1980 フランスの思想家)などがすでに用いており、まったく新しいことばというわけではありませんが、この概念に人間学的な意味を与えたのはやはり菅野氏ではないかと思います。

では、このホモ・シグニフィカンスという概念は、人間に対する理解を深める点でどの程度まで役立つものなのでしょうか。

詳細な説明は次回になりますが、わたしが思うに、この概念にはじつは、光と影があります。

いまのわたしのおよその目分量で言うと、長所が半分、短所が半分、といったところでしょうか。

ただし、この概念の短所なるものは、おそらくは普通の状態では認識できないでしょう。

「情然の哲学」の観点からこの概念を検討してはじめて、その短所も明瞭にわかるようになるからです。

このあたりのことは話しはじめると長くなってしまうので、次回の講座で話すことにしましょう。

本講座の二つの目的

この講座もあと数回で切り上げる予定ですが、合計で30回程度になるこの講座は、筆者のわたしからすると二つの目的がありました。

一つは、人間学の教科書として一般に流布しているテクスト(『人間学とは何か』)を「情然の哲学」の視座から読み込み、解説と批評を行うことで、人間学研究の新しい展望を切り開いていくこと。

もう一つは、わたし個人の現在進行形の人間学研究をホームページに掲載することで、サイトを訪れてくれたひとに人間学の魅力を伝えること。

当初からこの二つを目的としてわたしの講座ははじまりましたが、ありがたいことに、どちらの目的もそれなりの達成を確認することができたのではないかと思います。

一つ目の目的についてはあと数回の講座で完全な達成を目指しますが、二つ目の目的についても、すでに望ましい成果があらわれつつあります。

わたしがこの講座を始めてから今日に至るまでのあいだ、何人かのひとたちが当会に入会してくださったからです。

日本人間学会は普通の学会と違い、一般会員という制度を設けています。人間学に興味を持ち向学心をお持ちの方であれば、どなたでも入会することができる制度です。

「人間ってなんだろう? わたしってなんだろう? よりよく生きるにはどうしたらいいだろう?」

こんな素朴な疑問をお持ちであれば、それがそのまま当会に入会する資格となります。

また、これから新しい分野の学びを始めてみたいと思い何を学ぼうか検討している方なども、歓迎です。

わたしが自信をもってお勧めするのは、もちろん人間学です。

なぜかというと、ほかの学問に比べると入門の敷居が低いし、すでに100年の歴史があって中身が濃いし、奥も深いからです。また、人間学を学ぶと人間に対する俯瞰的な判断力を身に付けることができ、自分の人生に役立つことも大いにあるからです。

ここで少し、具体的なケースに触れておきます。

今年の夏、ある方が当会に入会されました。そのひとをNさんと呼ぶことにしましょう。Nさんは当会から『人間学とは何か』を受け取り、人間学の学びをはじめられました。すでにマックス・シェーラーなども読んでおられる向学心のある方です。

入会後しばらくして、Nさんはわたしにメールを下さいました。そのメールには、三つの添付書類がありました。自己紹介の文書と、『人間学とは何か』を要約した文書と、その読後感を記した文書でした。

Nさんはたまたまネット上に見つけた当会のホームページに注意を向け、それをご自身の新しい学びのきっかけとされたのでしょう。

こうした事例が少しずつ積み重なっていくと、当会にもやがて「学識サロン」のような空間が生まれてくるのではないかと思います。

それが、出入り自由の風通しのよいサロンであれば、人々は好んでその場を利用するようになるでしょう。

このような状態を創りだすことが、わたしがこの講座をはじめることにした二つ目の目的でした。

次回は、「ホモ・シグニフィカンス」の問題について語ります。

もう少し具体的に言うと、「ホモ・シグニフィカンスの存在論」と「情然の哲学」が提示する「家族的四位構造の存在論」がどのように重なり合うのか、という問題について話します。

内容がかなり深まっていくと思うので、どうぞご期待ください。

では、今回の話はこのへんで。

 

ブログ著者紹介

(関根均 せきねひとし)
1960年生まれ。慶応大学卒業。専攻は国文学。2010年日本人間学会に入会。現在、研究会員として人間学の研究に取り組んでいる。