3.結果 (3) 樋口季一郎

兵庫県淡路市多賀: 樋口季一郎銅像

ユダヤ人難民救済に貢献した日本人として、杉原千畝 (すぎはら・ちうね) は世界的によく知られている。その一方、樋口季一郎 (ひぐち・きいちろう) (相良, 1973; 坂東, 2002; 早坂, 2010; 木内, 2014; 樋口, 2020; 樋口, 2022) についてはほとんど知られていない。

1888年8月22日、兵庫県旧三原郡阿萬 (あま) 村 (現・南あわじ市) に生まれた樋口は、その後軍人を目指した。なお18歳の時、岐阜県大垣市の樋口家に養子になった (櫻田, 2015, p. 96)。このことが、後にやはり岐阜県出身の杉原千畝の命のビザの決断に影響を与えたことが推定されている (同上, p. 97)。杉原は同郷となった樋口のユダヤ人難民救済に対して敬意を持っていたようである。樋口はその後、陸軍中将として北方の守りに当たった。そして1970年10月11日に東京で没した。

その樋口季一郎の功績 (岡部, 2023a, 2023b) を後代に残すため、孫である樋口隆一明治学院大学名誉教授を会長理事とする一般社団法人「樋口季一郎中将顕彰会」が2021年に発足した (岡部, 2021; 勝田, 2022)。ユダヤ人22人も発起人に加わる中、予定通り2022年10月11日、樋口季一郎の命日に兵庫県淡路市多賀の伊弉諾神宮内に樋口季一郎の銅像が建立された (産経新聞, 2022; ふじもと, 2022)。

その碑文には、樋口季一郎の功績について、以下のように記されている: 昭和12年ドイツ視察を經て、滿州國ハルピン特務機關長となり、ソ連との國境付近のオトポールに到來せるユダヤ難民救濟の道を開けり。

また北方防衛について、以下のように言及されている: 昭和18年北方軍司令官としてアッツ・キスカ兩島の作戰を指揮せり。昭和20年8月、北海道占領を目指したるソ連軍が、樺太・千島列島で侵掠を開始するや、第五方面軍司令官として斷固反撃を支持し此を撃退、日本分割を阻止せり。

本論考では樋口季一郎がオトポールのユダヤ人難民救済の要点だけを記すことにする。詳細については後日報告する。なおキスカ撤退作戦 (相良, 1973, pp. 159-326; 早坂, 2010, pp. 171-214; 木内, 2014, pp. 162-180; 2020, 樋口, 2020, pp. 67-70, 175-178; 樋口, 2022, pp. 674-706) および占守 (シュムシュ) 島の戦い (相良, 1973, pp. 419-486; 早坂, 2010, pp. 215-235; 木内, 2014, pp. 180-183; 樋口, 2020, pp. 80-81, 200-205) については本論考の趣旨から外れるので割愛する。

オトポールのユダヤ難民救済

樋口季一郎は、満州国国境のソ連領内のオトポールで、シベリア鉄道経由で逃れて来た多数のユダヤ難民が、満州国への流入を阻止され、瀕死の状態にあるとの報告を受けた。その状況を理解して、樋口が迅速な指示を出すことで、ユダヤ難民を救ったことは、いくつかの書籍によって知ることができる (相良, 1973, pp. 32-96; 渡辺, 2000, pp. 182-216; 坂東, 2002, pp. 54-61; 早坂, 2010, pp. 13-30; 山田, 2013, pp. 52-53; 木内, 2014, pp. 63-67, 104-161; 櫻田, 2015, pp. 95-97; 樋口, 2020; pp. 32-64; 河村, 2022, pp. 507-601)。それだけでなく、樋口季一郎自身の回想録の中で、オトポールのユダヤ難民への記述が見られる (樋口, 2022, pp. 579-591)。

樋口は1937年8月に関東軍特務機関長としてハルピンに赴任した。ハルピンユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマン博士は、極東ユダヤ人大会をハルピンで開催することを計画していたので、樋口に面会を求めその許可を求めたところ、樋口はそれを快諾しただけでなく、自身もそれに出席することになった。第一回極東ユダヤ人大会 (1937年12月26日〜28日) の席上、樋口は来賓挨拶の祝辞 (相良, 1973, pp. 51-53; 坂東, 2002, pp. 56-57; 木内, 2014, pp. 108-109; 樋口, 2020, pp. 42-44, 143-148) の中で、ユダヤ民族への深い理解と同情、そしてユダヤ人問題の解決としてユダヤ人国家建設を示した (相良, 1973, p. 53; 櫻田, 2015, p. 96; 樋口, 2020, p. 44)。この樋口の祝辞は出席していたユダヤ人達に深い感動を与え、拍手・喝采が沸き起こった。樋口自身の回想録でも、ユダヤ人国家建設の主張を繰り返している (樋口, 2022, p. 582)。

その後、1938年3月10日に、樋口はオトポールの状況を知ることとなった。カウフマン博士も樋口の下を訪れ、助けを乞うた。樋口はすぐに決断し、満州国外交部の説得にあたり、人道上の問題であるとの共通認識を得て (樋口, 2022, p. 580)、満州国から入国ビザを発給させることに成功した。この樋口の働きかけにより、オトポールに足止めされていたユダヤ難民は3月12日に、満州の国境の満州里を経てハルピンへ到着した (相良, 1973, pp. 82-84; 渡辺, 2000, pp. 183-185; 早坂, 2010, pp. 28-29; 木内, 2014, pp. 120-123, 190。そこで少し介護と休養を取ってから、難民達は先へ向かった。その多くは大連、上海経由でアメリカへ渡った (相良, 1973, p.85; 木内, 2014, p. 122)。のちに建国されたイスラエルへ向かった者もあった (木内, 2014, p. 122)。

満鉄総裁松岡洋右による支援

忘れてならないのは、この時樋口が支援を要請した、満鉄総裁松岡洋右の協力である。松岡は直ちに救援列車の出動を命じた。13便の特別列車「アジア号」が救援列車として出動した (木内, 2014, p. 120)。その運賃は松岡の指示で無料であった (山田, 2013, p. 53)。

後に外務大臣となる松岡は、2年後の1940年にはカウナスの杉原千畝の日本への通過ビザ発給を拒否している。それは外相としての立場上、ドイツとの外交問題に発展するようなことを避けるためであった (山田, 2013, pp. 92-93; 櫻田, 2015, pp. 203-204)。しかし松岡自身はユダヤ人に対して同情的であったことは、1937年8月に満鉄総裁松岡の下に呼び寄せられた小辻節三 (後に神戸でユダヤ人難民のために奔走することになる) が「彼のユダヤ人に対する姿勢は正しく、温かいものであった」と証言している (山田, 2013, p. 64)。

樋口季一郎が助けたユダヤ難民の数として2万人との説がある。1970年10月11日の樋口季一郎の死を悼む、10月20日付朝刊の朝日新聞の追悼記事「ユダヤ人ニ万人に陰の恩人」がその後、独り歩きしたようである (木内, 2014, p. 189)。実際はもっと少なかった可能性はあるが (渡辺, 2000, pp. 190-194)、満鉄には、対ソ戦争に備え、いつでも数万の軍隊を輸送できる体制が敷かれていたとのことであり (木内, 2014, p. 119)、また13便の12両編成特別救援列車が出動したこと (同上, pp. 120, 190)、などから、かなりの数のユダヤ難民を救済したことが推定される。

樋口季一郎自身は回想録で「何千人」と記載している (樋口, 2022, p. 580)。

なお命のビザを発給した杉原千畝の手記には、以下の記述が見られる: 満州の都ハルビンにいた日本軍の、陸海軍特務機関長樋口中将が首謀者となって、…二万人分のシベリア鉄道の貨車輸送を、真剣に企画、且つ実行していたのであります (イスラエル建国資料館には、本件に関する記録もある他、エルサレム市内には樋口氏の名を冠した町名すらあり) (杉原, 1983, p. 301)。

関東軍参謀長東條英機による査問での同意取り付け

樋口がオトポールのユダヤ難民を保護救済したことは、その2週間後にヒトラー・ドイツからの猛烈な抗議を引き起こした。樋口には新京にある関東軍司令部への出頭命令が下された。そこで樋口は参謀長東條英機 (後の首相) の査問を受けることになった (相良, 1973, pp. 88-92; 木内, 2014, pp. 124-126; 樋口, 2020, p. 148; 樋口, 2022, pp. 582-584)。樋口季一郎「回想録」によれば、樋口は以下のように主張した: もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策である。…日本はドイツの属国でなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に… (樋口, 2022, p. 583)。

東條参謀長は、樋口の主張に同意し、その意見を陸軍省に申し送った。そうすることで、ドイツからの抗議はうやむやに終わった (木内, 2014, p. 154; 樋口, 2022, p. 584)。

 

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