3. 結果 (1) アンネ・フランク

 アンネのバラ

アンネ・フランクのユダヤ人迫害の悲劇を忘れないために、アンネのバラを譲り受け、平和を願う場所が兵庫県西宮市甲陽園にある。それが聖イエス会アンネのバラの教会である。

アンネのバラの誕生の経緯は以下の通りである (高橋, 2002d, pp. 122-126)。アンネの父、オットー・フランク (Otto Frank) は、アンネの家族で唯一生き残った。オットー氏は、ユダヤ人強制収容所から生還した後、娘のアンネが残した手記を一冊の本として残すことにした。1945年2月頃にベルゲン・ベルゼン収容所で亡くなった最愛の娘アンネの意思を実現するためであった。それが1947年6月25日に「隠れ家」(Het Achterhuis) というタイトルで出版されたものである (Anne Frank, 1947. 初版)。

なお、アンネの日記の手稿は、1944年8月4日に隠れ家がゲシュタポに発見され、アンネ一家が連行された時に、奇跡的にアンネ一家の保護者であったミープ・ヒース (Miep Gies) が探し出し、誰にも知れないように保管していた。その大切なアンネの日記の手稿を、アンネ一家で唯一の生存者であったオットー・フランクに引き渡すことができた。これも奇跡のようなことであった。ミープ・ヒースは「思い出のアンネ・フランク」という本を出し (ヒース・ゴールド, 1994)、「アンネの日記」の背景に関する貴重な記録を残している。

その後、スイスのバーゼルに移ったオットー氏は、1959年にベルギーの園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘ氏に出会った。デルフォルヘ氏はオットー氏から「アンネが自然をこよなく愛していたこと、また、他の花より、とりわけバラが好きだったこと」を知らされ、1955年に Rêve de Capri (カプリの夢) と Chanteclerc (シャントクレール) という二種の交配によって作出されていたバラの新種を、Souvenir dAnne Frank (アンネ・フランクの思い出) として発表することことを決めた (発表は1960年)。新種のバラが異民族間の相互の理解を深めるのに役立つことを願ってのことである。

 アンネのバラの寄贈

アンネのバラが、オットー氏の手から直接日本へ贈られたことについては、以下のようなオットー氏と日本のクリスチャン (プロテスタント教会聖イエス会) との間に交流があったからである (大槻, 2002a, p. 2; 大槻, 2002b, pp. 14-34)。

聖イエス会しののめ合唱団が招かれてイスラエルでコンサートに参加した1971年、コンサート会場の移動の際に立ち寄ったネタニアで、合唱団は偶然にもオットー・フランク御夫妻に出会った。1971年4月4日のことであった (大槻, 2002b, pp. 17-19)。その後、親交を深めて、1972年12月25日にオットー氏から寄贈された最初のアンネのバラの苗木10本が京都のしののめ合唱団へ届いた (同上, p. 29)。残縁ながら9本が枯れ、1本だけが奇跡的に根付いた。1975年10月にしののめ合唱団がヨーロッパ公演に出かけた折に、バーゼルのオットー氏の自宅で再度バラの苗木を送って欲しいとお願いしたところ、事情を了解したオットー氏からすぐに2回目の苗木10本の寄贈があった (同上, 2002b, p. 33)。そのうち一株は京都府綾部市の山室隆一氏の下へ送られ、大切に苗木を育てらた。山室隆一氏は毎年150株前後の苗木を、求められるまま全国に送るという貢献をされた (大槻 2002a, p. 3; 大槻, 2002b, p. 33; 山室, 2002, pp. 133-138)。その遺志は、その後三男の謙治氏に引き継がれた (大槻, 2002b, pp. 33-34; 山室, 2002, pp. 136-143)。

賢治氏は、父・隆一氏の遺志を以下のように語る: 今や核兵器が宇宙にまで広がってしまった時代、しかしこんな時代になっても、ひたすら平和を求めた一人の少女、アンネ・フランクの祈りは生き続けています。平和運動にはいろいろな方法があるでしょうが、私はこのアンネのバラを贈り続けます。アンネのバラを通して、少しでも平和に役立ちたいのです (山室, 2002, p. 135)。

 兵庫県西宮市甲陽園: アンネのバラの教会

このアンネの意志を引き継いだ教会を兵庫県西宮市に建設するというビジョンは、当時兵庫県西宮市で小さな教会を担当していた篠光子牧師の下に、聖イエス会の指導的地位にある大槻武二牧師から1978年9月24日日曜日の朝、突然の電話によって知らされた (篠, 2002, p. 48)。1978年10月1日付の大槻牧師からの手紙ではアンネのバラの教会のビジョンとして、さらに以下のように具体的な指示があった: 気候の温暖な地、京阪神に近いところ。そうだ、西宮だ。阪急沿線の静かな地。そこにアンネのバラ園を造り、アンネの像を置き、平和の碑を建てる。アンネに関する本や資料を集めてそこに保存する。若い人々、中学生や小学生に夢を与え、アンネの理想を持たせる。バラの庭には、アンネのバラを五十株くらい植える。礼拝堂の正面にはアンネのバラのステンドグラスを入れる。そのためには土地を選ぶことです。静かな小公園のような雰囲気が出るところが、百坪はほしいと思います。私の頭には甲陽園近辺、不思議なことに、この辺がピンとくるのです (同上, pp. 48-49)。

その後、多くの人の善意と愛によって、1980年4月13日にアンネのバラの教会は西宮の甲陽園の地に落成した。その献堂を祝うオットー氏からの祝辞には以下のような言葉があった: 多くの若い人々は、アンネが困難な環境の中で持ち続けた勇気、信仰、明るい心に触れました。アンネは戦争を憎みました。1944年5月3日の日記の中で、こう書いています。「戦争がなんの役に立つのでしょう?なぜ人間は仲良く暮らせないのでしょう? (オットー・フランク, 1980 [2002], p. 53) …愛、これこそが皆様の心であり、私の信じているものなのです。私たちの周りで何が起ころうと、希望を捨ててはいけません。片寄った考え方や差別を取り除き、平和に向かって働き続けましょう。私たちがその使命を果たすことができるように、神様にお祈りいたしましょう (同上, p. 56)。

この4ヶ月後の1980年8月19日、オットー氏は亡きアンネと家族が待つ天国へ旅立たれた (篠, 2002, p. 56)。なおオットー氏は生前、1957年にアンネ・フランク協会 (アンネ・フランクの家) をアムステルダムに、1963年にはアンネ・フランク財団をスイス・バーゼルに設立した。

アンネのバラの教会を介して

オットー氏はアウシュビッツから生還した後、1953年に再婚したが、そのフリッツィ夫人がアンネのバラの教会へ送った手記の中に、生前のオットー氏が遺した貴重な言葉が記されている: ほとんどの手紙の中でも、彼は言っています。「人はただ安易な生活をおくる権利を持っているのではない。そうではなく、人は互いに助け合いながら、世界が切実に求めている平和のために働く義務を負っているのです。誰でも、そのことを、その人自身の家庭や周囲で始めることができ、次にその人の影響力の及ぶ場所で行うことができます」と (フリッツィ・フランク, 1982 [2002], p. 66)。…『アンネの日記』の中にある思想や理想を人々の中に推し進めることが、彼の人生におけるもっとも重要な目的でした (同上, p. 68)。…世界中の宗教間の協調、特に、ユダヤ教とキリスト教の間の協調は、彼の心の崇高な理想となりました。彼は普遍的な世界の目的である、人間の間から敵意という中垣を取り除くことを目的にした、多くの団体に加わっていました (同上, p. 69)。

このアンネのバラの教会には、アンネのバラ、アンネの像以外に、アンネの言葉が引用され掲げられている。アンネの父・オットー氏が大切にしていたのはアンネのこの理想だったのである。引用箇所と引用文を示す。

・幸福 Happiness (日記 1944年7月6日): だれもが幸福になりたいという目的をもって生きています。生きかたはそれぞれちがっても、目的はみんなおなじなんです。

・勇気 Courage (日記 1944年4月11日); きっと世のなかのため、人類のために働いてみせます。そしていま、わたしは考えます。そのためには、なによりもまず勇気と、そして明朗な精神とが必要だと!

・自由 Freedom (日記 1944年2月12日):  わたしはあらゆるものにあこがれています 深く思いこがれています。ひとと話したい、自由になりたい、お友達がほしい、ひとりになりたい。

・人間愛 Humanity (日記 1944年4月11日): いつかはきっとわたしたちがただのユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです。

・人の役に立ちたい Usefulness (日記 1944年4月5日): わたしはすべての人々の役に立ちたい。…だからこそ、書くこと、すなわち、わたしのうちなるものをすべて表現できるという才能をわたしに与えてくださった神様にとても深く感謝します。

・与えよう Giving (エッセイ・与えよ 1944年3月26日): 与えましょう!いつでもなにかを、親切だけでも与えることはできるのです。すべての人がそうやって、心ある言葉を使ったら世のなかの正義と愛はもっと豊かになります。

・良い心 Goodness (エッセイ・与えよ 1944年3月26日): みな人間です、欠点短所を持ちますが生まれつき良い心ももっています。

・平和 Peace (日記 1944年7月15日): 顔をあげて天を仰ぎみるとき、わたしは思うのです。いつかは…平和な、静かな世界がもどってくるだろう、と。

アンネのバラの教会に併設されているアンネ・フランク資料館では、オットー氏から寄贈された、アンネの形見のスプーン、靴べら、切手入れの小箱、アンネの写真、各国版のアンネの日記、フランク家で使用されていた燭台など、貴重な遺品が展示されている (篠, 2002, p. 58)。

なおアンネのバラの教会を機縁として、兵庫県宝塚市在住のユダヤ人強制収容所生存者エリュック・バルク氏は、人生に新たな意味を持つ勇気を与えられた(高橋, 2002b)。バルク氏はホロコーストを経験したユダヤ人として、以下のように指摘した: 家族や隣人との私たちの毎日の生活において、私たちみんなが他の国民、人種または宗教の違いに寛容であり、尊敬することを学ばねばなりません。各自がそのように絶え間なく、努力することによってのみ、学びとり、理解できうるのです (バルク, 1996 [2002], p. 89)。

その後、アンネのバラはアンネのバラの教会からアンネの生誕地フランクフルトへ贈られることになった。オットー氏から日本へアンネのバラが贈られてから30周年にあたる2002年1月6日のことであった (高橋, 2002c, pp. 92-107)。

 広島県福山市: ホロコースト記念館

1971年4月にしののめ合唱団の一員としてイスラエルのネタニアでオットー氏と出会ったことが縁で、牧師の道を目指し、1990年に広島県福山市御幸町に赴任した大塚信牧師は、1993年にアンネ・フランク写真展を開催した。その反響が非常に大きかったことから、新たな使命、つまり「ホロコーストを伝える教育センターをこの地に建設したい」という強い願いにかられた (大塚, 2002, pp. 152-154)。以来、全世界に支援の呼びかけを行い、多くの方々との出会いと理解を通して、ホロコースト記念館の建設が進められた。オットー氏の遺品の寄贈もあった (大塚, 2002, pp. 154-157)。

そして阪神大震災の年の1995年6月18日にホロコースト記念館は福山市御幸町の地に開館した (大塚, 2002, pp. 158-159)。開館式に駆けつけてくれたユダヤ人生存者でアンネの親友でもあったハナ・ピックさんは、開館記念講演の中で以下のような貴重な言葉を伝えている: 私たちは『ホロコーストを記憶せよ』という命令を天よりいただいています。それがこの記念館の建てられた理由であると思います。これまで起こったすべてのことを永遠に、決して二度と繰り返さないために、私たちの子どもたちに語りついでいかなければならないのです (ピック, 1995 [2002], pp. 173-174)。

なお協力関係にあるNPO法人ホロコースト教育資料センター (1998年10月設立) もアンネの意志を引き継いでいる (黒川, 2009)。

 兵庫県西宮市苦楽園在住作家小川洋子

兵庫県西宮市には西宮七園という7つの園がつく閑静な住宅街がある。それが、苦楽園、甲陽園、香櫨園、甲風園、昭和園、甲東園、甲子園である。その中で作家文化人から最も好まれてきたのが苦楽園である (河内, 2015; 河内, 2017; Sakitani, 2023j, pp. 29-30, 36-37; 西宮流, 2023; 蓮沼, 2024)。昭和の時代には、作家谷崎潤一郎 (西宮流, 2023)、俳人山口誓子 (米田, 2022)、日本で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士 (湯川, 1960; 湯川, 1976; 湯川・小沼, 2007; 西宮流, 2023) などの著名人が苦楽園と関わっていた。

なお、作詞家岩谷時子は西宮南東部の甲子園に一時居住していた (河内・増井, 2023)。また、私達が1997年にCCC研究所を設立したのは西宮北口北西部に位置する甲風園であった。1995年の阪神大震災で震度7の直撃を受けたことで西宮北口は壊滅状態になり、震災復興が遅れていたため、やむなく2001年1月に現在地、神戸市西区に移転した。しかし本来の拠点は西宮であり、現在でも研究拠点は西宮である。さらに、阪神大震災前の1990年頃の苦楽園、甲陽園、甲風園を描いているのがライトノーベル作家谷川流である (谷川, 2013; 蓮沼, 2024)。その「涼宮ハルヒの憂鬱」(谷川, 2003. その後テレビアニメ化)、「涼宮ハルヒの消失」(谷川, 2004. 後に劇場版アニメ化) では、貴重な西宮の震災前の街並みが記載され、京都アニメーションの手によって映像化されたことで、人々の記憶に長く残ることになった。

アンネのバラの教会がある甲陽園の西側に隣接する苦楽園に、現在も居住して作家活動を続けている世界的作家小川洋子 (蓮沼, 2024) の名前を挙げる必要がある。なぜなら、小説「妊娠カレンダー」(1991, 芥川賞受賞)、「博士の愛した数式」(2003, 読売文学賞受賞, 本屋大賞受賞. 後に映画化)、「原稿零枚日記」(2010)、随筆「ともかく散歩いたしましょう」(2012)、その他多数を執筆する傍ら、「アンネフランクの記憶」(1995)、「アンネの日記〜言葉はどのようにして人を救うのか」(2022) などで、深くアンネと関わってきたからである。その作家としてのしなやかでみずみずしい感性は、ステレオタイプ化された従来のアンネ理解とは異なる貴重な視点を提供してくれる。

「『アンネの日記』を、歴史的意義を帯びた一冊として、構えて読むアプローチの仕方ももちろん大事でしょう。しかし、そういうことを一旦脇に置いて、いまを生きる現在の自分に引き寄せて読むことも可能です。そうすれば結果的に、当時ナチスが行った行為のむごさ、愚かさを、なおいっそう心の深いところで感じ取れるのではないでしょうか。(小川, 2022, pp. 7-8)」

「言葉とはこれほど自由自在に人の内面を表現してくれるものかと驚いた。すぐに私はアンネの真似をして日記をつけ始めた。わけもなくただひたすらに書きたいという欲求が、自分の中にも隠れていることを発見した。あの時わたしは、生きるための唯一、最良の手段を手に入れたのだと思う。(小川, 1995, pp. 11-12」

「八十年近くたってもまだ、『アンネの日記』が現代の我々に訴えかけてくる。それは戦争や紛争や虐殺や差別といった負の歴史が繰り返されているという現実を示していると当時に、彼女が書き記した言葉達がみずみずしい生命力を持ち、どんなに時間が過ぎようとも、色あせない真実の響きを持っているという証拠でもあると思います。(小川, 2022, p. 128)」

さらに、「アンネの日記」の翻訳者、深町眞理子は以下のように指摘する: この解説を書くにあたり、『アンネ・フランクの記憶』を三年ぶりに読みかえした。そして不覚にも、何度か涙ぐんでしまった。書かれている内容そのものには、『日記』の訳者として既知の事実も多いのだが、なによりも、それらをひとつひとつ確かめてゆく著者の真摯さに打たれたのだ (深町, 1995 [1998, 2023], p. 266. この解説は1998年に書かれた)。

このように、アンネとの出会いには多くのあり方があり、先入観なく虚心にアンネに向き合うことを深町は勧めている (同上, p. 266)。

 海外からの日本に対する批判的視点

アンネのバラの教会の高橋牧師によると、ユダヤ人生存者エリック・バルク氏は解放後すぐに絵本『アドヤ』描いた。高橋牧師はバルク氏の説明を以下のように記載している: 絵本では、ユダヤ人を迫害するナチス・ドイツは「アドア」呼ばれる恐ろしい架空の怪獣として描かれています。…このアドヤ (AHDOEJA) の「ア」はペルシャ神話に出てくるすべての悪の権化を意味する「アーリマン」の「ア」。「ド」はドイツを、「ヤ」はヤーパン、つまり日本を意味しているというのです。悪の権化とドイツと日本 (高橋, 2002b, pp. 83-85)。高橋牧師は振り返る: わたしはそれまで、日本は、ドイツと軍事同盟を結んでいたのだから、日本もユダヤ人に対して加害者であると、漠然と思っていました。ユダヤ人を差別し迫害して殺戮し、自分たちから自由を奪い、不自由な隠れ家生活に追い込み、そして子供たちを捕らえていった犯人として描かれた悪の権化である怪獣アドヤ。当時のバルクさんの内に、どれほど憎んでも余りある憎しみの対象に、日本がナチス・ドイツと同列に意識されていたという事実を知り、確かに日本は加害者だったのだ、と改めて強く認識させられました (同上, p. 85)。

さらに、「アンネの日記」の翻訳者、深町眞理子は、在欧ジャーナリスト谷口長世体験談として、以下の点を指摘する: アンネ・フランク財団の研究員から、「日本ではアンネが非常に有名なようだが、なぜなのだろう」と問いかけられ、返事に窮した。…研究員はさらに続けて「…日本では、大戦の被害者の体験談として、もっと広い読者層を持っているらしい。それは日本人がつねに自らを戦争の被害者として受けとめていて、アンネはそうした被害者の象徴としてとらえられ、共感を生んでいるのではないか」と、たたみかけてきた (深町, 1995 [1998, 2023], p. 261)。そこから深町は日本人に対する外部からの批判を読み取っている: 欧米人、とりわけオランダ人がそういうふうに見るのは当然のこと、その背後には、日本人は加害者のくせに被害者面ばかりしすぎるのではないか、とう言いたい気持ちがどこかにひそんでいると見ている (同上, p. 262)。勿論、深町はこのようなオランダ人の見方が、日本でのアンネ受容の実態と大きくかけ離れていると考えている (同上, p. 262)。

しかし、このような外海からの日本に対する批判的視点があることを理解し、自己を振り返ることは重要である。その上に立って、より普遍的な立場から平和を模索する必要があるだろう。

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