人間学の現在(3)

人間学

今回は、マックス・シェーラーによって主題化された「人間観の五つの類型」と、その統合型として現れた「ホモ・ロクエンスの人間観」、それから、その発展形として提起された「ホモ・シグニフィカンスの人間観」について話してみたいと思います。

人間観の五つの類型

マックス・シェーラーは、西洋の思想史のなかにはおおむね五つの人間観があることを指摘しました。

  1. 有神論的人間
  2. ホモ・サピエンスとしての人間
  3. ホモ・ファベルとしての人間
  4. ディオニュソス的人間
  5. 超人としての人間

このような類型がどのようにして導き出されたのかというと、それはかれの文献渉猟です。西洋の思想史をつぶさに調査すると、人間が自分自身を把握する仕方に五つの類型が認められるというのです。

シェーラーの類型学は世に名高いものであり、今でも少なくない影響を思想界に与えています。

ところが、かりに人間をこのような五つのタイプに分類したとしても、それで人間が「わかった」ということにはなりません。

五つでなければならない理由はないし(それはシェーラー自身も認めています)、何よりもひとりの人間のなかには多様な要素が混在しており、特定のタイプに分類できない人もたくさんいるからです。

たとえば、「あなたはこの五つのうちのどのタイプ?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか。「わたしはこのタイプです」と即答できる人もいるかもしれませんが、そうでない人も多いことでしょう。

わたし自身も、正直、「自分をどれかひとつのカテゴリーに分類されても困るなぁ」という気がします。

案の定、この説に対してはいろんな批判が出されました。ただ、紙面の都合上、批判の紹介などはここでは割愛し、それぞれの類型について簡単に説明しておきましょう。

まず、有神論的人間

これは要するに宗教的人間のことであり、シェーラーの頭のなかにあったのは、ユダヤ教およびキリスト教の信徒の人たちです。キリスト教は西洋世界において非常に強い影響力を持っているので、類型の筆頭に挙げているのでしょう。

次に、ホモ・サピエンスとしての人間

これは簡単に言うと、古代のギリシア人に象徴される人間の類型です。

古代のギリシアにおいて、人類はすでに哲学という知の営為をはじめていますが、その伝統は現代まで脈々と続いています。近代哲学の父と言われるデカルトも、「良識は人間に普遍的に与えられたもの」として(この場合の良識は理性とほぼ同義と考えられます)、人間の中心軸に理性があることを強調しています。人類をホモ・サピエンス(知恵ある存在)と捉える見方も、キリスト教とならんで西洋思想の大きな流れのひとつとなっています。

三番目に、ホモ・ファベルとしての人間

ホモ・ファベルとは、簡単に言うと、道具を作る存在ということです。

動物はモノを作りませんが、人間はモノを作ってそれを生活に役立てます。家であれ家財道具であれ何であれ、モノの存在を抜きにしてわたしたちは人間の生活を考えることができません。そこで、「人間はモノを作って生きる存在である」という見方が出てくるわけです。

ただし、シェーラーは共産主義者たちの存在をその哲学のなかに取り込んでいません。当時はまだソビエト連邦ができたばかりの状態で、マルクスの思想が典型的なホモ・ファベルの人間観であることに思い至らなかったのかもしれません。

マルクスはその主著『資本論』のなかで、労働価値説なるものを提示しています。わたしの思うところ、これこそまさに「ホモ・ファベル」の典型です。マルクスが想定していた労働とは商品の生産であり、人間の価値をモノづくりの経済活動に置いていたからです。

たとえば、世界一人口の多い国である中国は共産主義の国ですから、ホモ・ファベルの思想は現代においても大きな力を持っているといえます。

四番目に、ディオニュソス的人間

これは簡単に言うと、ホモ・サピエンスの対極にある人間の類型です。

ディオニュソスとは、ギリシア神話に登場する酒の神です。たしかに人間は理性的な存在ですが、理性では統御できない衝動心を持っていることも事実です。酒を飲めば理性が麻痺し、普段とは別の人格が現れることもあります。

シェーラーはこの類型に当てはまる人間の例として、いわゆるロマン主義者たちをあげています。また、ショーペンハウアーやある時期のニーチェなどもこのカテゴリーに属します(ただし、ニーチェについては五番目の類型の方により重点があります)。

人間の身体が自然の状態として持っている欲求には、一般に三つのものがあるとされています。食欲と、性欲と、睡眠欲です。これらは人間の生存の維持のために欠かせないものですが、いつでも理性で統御できるものではありません。人は飢えれば破壊活動をしてでも食料を確保しようとするし(江戸時代の百姓一揆など)、どんなに文明が進んでも性犯罪を根絶やしにすることはできません。

そんなふうに考えてみると、理性の働きを妨害するものは酒だけではないことがわかります。

とするなら、人間はだれしも、この類型の要素を多かれ少なかれ持っていることになります。一部の人間にだけ当てはまる類型というわけでもないのです。

最後に、超人としての人間

これは、最初のカテゴリーである宗教的人間の対極にある類型と考えられます。

超人という概念を力強く打ち出した人物としては、ニーチェが有名ですね。ここでは、便宜上、ニーチェに論点を絞って「超人」についての解説をしましょう。

簡単に言うと、「超人」はニーチェが理想とした人間像です。この概念が生まれた背景には、ヨーロッパ世界を長らく支配していたキリスト教の存在があります。

キリスト教は、イエス・キリストを神ご自身とする信仰ですから、人間はどんなに頑張っても神の子にはなれません。いわんや、神そのものになどなれるはずがありません。ところが、人間の究極的な欲望は自分自身が神になることだとニーチェは言うのです。キリスト教の信徒でいるかぎり、人は神の養子以上の身分にはなれませんから、人生の幸福は永遠につかめないことになります。

そこでニーチェは、超人という概念を立てたわけです。かれは人間の存在を低いところに閉じ込めるキリスト教の道徳を「奴隷道徳」と見做し、人間の本性を抑圧するものとして批判しました。

宗教的世界観に対するアンチテーゼとして、ニーチェの思想は今でも影響力を持っているといえます。

以上が五つの類型に対する簡単な解説ですが、先にも述べたように、これらの類型を詳しく調べてみても、なお「人間とは何か」という問いかけは残ります。そればかりか、いっそう深い疑問として人間とは何ぞやという問題が立ち上がってくることになります。

そこで、思想家たちは、この五つの類型を統合し得る新たな視座がないものかどうか、探求したわけです。

その結果生まれてきたのが、ホモ・ロクエンスという人間観でした。

「ホモ・ロクエンス」という人間観

ホモ・ロクエンスとは、簡単に言うと、言葉を操る存在ということです。

世界史のテキストにはおおむね、入り口の部分に人類の誕生というテーマがありますが、そこには「言語の使用」と「二足歩行」が人類の特徴として普遍的に認められるとあります。これはたしかにそのとおりで、常時二足歩行をしている動物は人間以外にいないし、また、体系的な音声言語と文字言語を持っている動物は人間以外にいないでしょう。

そこで、「言語の使用」は人間をほかの動物と区別する公理としてふさわしいものとされ、そこからホモ・ロクエンスという人間観が生まれたわけです。

しかしながら、このホモ・ロクエンスの人間観に対してもやはり批判は現れました。

人間が人間として生きるために言語が必要であることは言うまでもありませんが、だからといって、すべての人間が言語を使えるわけではありません(たとえば幼児など)。また、人間は、身振りや表情などでも自分の意思や感情を人に伝えることができます。

そこで、ホモ・ロクエンスの人間観は「狭すぎる」(普遍性に到達していない)ということになり、人間を人間たらしめている最も基本的な特徴とは何なのか、という問題がさらに探求されることになりました。

「アニマル・シンボリクム」

ホモ・ロクエンスの人間観が疑問視されるなか、この問題に新しい視座を与えてくれたのが、エルンスト・カッシーラー(1874年~1945年)です。

カッシーラーはアニマル・シンボリクム(シンボルを操る動物)という概念を提起しましたが、「言語」よりも広い領域をカバーできる「シンボル」を主軸にしたことで、人間に対する考察はより正確なものとなりました(もっともかれの仕事は「人間学」の構築を意図したものではありません)。

かれの貢献は、簡単に言うと、音楽や美術などの非言語的な表現や舞踊などの身体的表現も、人間独自の行為として考慮に入れたところにあります。たしかに、人間の表現行為は言語に限ったものではありません。

ところが、アニマル・シンボリクムに対しても、その後、「これでもまだ狭すぎる」という批判が現れることになりました。

カッシーラーが活躍した時代は20世紀の前半ですから、われわれの尺度でいうと「戦前の人」です。戦後、すなわち20世紀の後半において科学技術は長足の進歩をし、それぞれの学問分野もめざましい発展を遂げています。

そんななかであらためてアニマル・シンボリクムの学説を検証したとき、人間をとらえるためのさらに新しい概念が必要になったのです。

「ホモ・シグニフィカンスの人間観」

では、その新しい人間観とはどのようなものでしょうか。

それは、「ホモ・シグニフィカンス(記号を操る存在)の人間観」というものです。

「シグニフィカンス」は「シンボル」よりも広い領域(および深い次元)をカバーできる概念ですが、射程距離が長い分難解なものになっており、説明をするのに多くの紙面を必要とします。

また、ある意味でこれは従来の人間学を革新する概念であるともいえるので、本講座のメインテーマの一つともなっています。

そのため、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」については、この講座の後半の部分で何回かに分けて解説することにしましょう。

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次回は少し話題を変えて、人間学の誕生というテーマで話をしてみたいと思います。