人間学の現在(18)

人間学

では、「情然の海」のなかを泳いでいるアメーバの話を続けましょう。

親子軸と男女軸の発生

陽陰の極性を帯びるようになったこの姿のない生命体は、揺らぎのなかにいるだけでなく、流れのなかにもいることができるようになりました。

自身のなかに陽陰の相対性が生まれたことで、「陽」である自分と「陰」である自分が、「こちらとあちら」という関係軸を生み出すことになったのです。

自分のなかに「陽の自分」と「陰の自分」があらわれることで、このアメーバは、自分のなかにもうひとりの自分を感じ取るようになり、「ここにいる自分」から「あちらにいる自分」へと移動することができるようになりました。これがおそらく、この生命体の「流れ」の正体ではないかと思います。

世界に自分しかいなければ、「ここに自分がいる」という意識も生まれませんが、自分のなかからもうひとりの自分が分化したことで、無意識の世界に生きていたこの生命体にも、原初の意識が芽生えるようになったのです。

ここにいる自分を「わたし」とすれば、あちらにいる自分は「あなた」になります。「わたし」のなかに「あなた」が生まれることによって、その一人称と二人称の関係性のなかから、自己意識というものが生まれ出たのではないかと考えられます。

陽と陰の関係は、お互いがお互いを支え合う関係ですから、陽が陰を生み出したとも言えるし、陰が陽を生み出したともいえます(どちらにしても同じことです)。とするなら、「わたし」と「あなた」の関係には、「生んだものと生まれたもの」の関係が隠れていることになります。

そしてこれは、人間の世界で言うと、親子の関係ということになります(親も子供との関係がなければ親でいることができないので、親を親たらしめているのは子供だといえます)。そのため、この関係性のことを、わたしたちは今後、親子軸と呼ぶことにしましょう。

そしてまた、この親子軸の発生と同時に、もう一つの軸があらわれるようになりました。

それがすなわち、男女軸というものです。

陽と陰の関係における「わたしとあなた」は、人間の世界で言うなら、夫婦の関係に相当します。夫婦の関係とは男女の関係ですから、わたしはこれを、男女軸と呼んでいるのです。

では、親子軸と男女軸は、お互いにどのような関係にあるのでしょうか。

それは、縦軸と横軸の関係ということになります。

縦と横は、相互補完的な概念であり、縦がなければ横もないし、横がなければ縦もありません。ですから、この二つの軸は二つで一つと言うべきであり、分離できるものではありません。これはちょうど、「母」という概念には「親」という属性と「女」という属性があり、この二つの属性を分離することができないのと同じです。もちろん、父や息子や娘にしても、その属性の構造は同じです。たとえば、「子」(親子軸)+「女」(男女軸)で「娘」になります。

「原初の心」の成長過程

陽陰の極性を帯びた純粋感情のなかに親子軸と男女軸があらわれることによって、前述のとおり、この原初の生き物は自我意識を獲得するようになりました。

これはちょうど、幼児が少しずつ自我意識を獲得するのと同じで、原初の世界においても、情がただ情のままに存在している世界から、一つの「心」が誕生したわけです。

そして、この原初の心もまた人間の心と同じように、悠久なる時の流れのなかで、段階的な成長を遂げていったものと思われます。

心が成長すると、理性も発達します。この点については、誰もが自分の人生において経験していますね。

わたしたちは時間と空間によってこの世界を捉えていますが、原初の心においても、その認識構造は同じでした。親子軸が時間意識を生み、男女軸が空間意識を生んでいたからです。

原初の心がそのときに表象していた時間と空間は、まだ物理的に存在するものではありませんでしたが、このようなイメージの世界がはじめにあったからこそ、ビッグバンという物理現象も起こり得たのではないかとわたしは考えています。

ところで、「原初の心」がどのようなプロセスを経てビッグバンを起こすまでになったかという点については、『情然の哲学』のなかに詳細な説明があります。

そのため、ここではそのプロセスを追いながら、「原初の心」が「神」になるまでの必然的な変化について見ていきましょう。

(『情然の哲学』には「神」という概念は登場しませんが、「原初の心」が「原初格」を確立し、概念的ビッグバンを起こした時点で、わたしはその存在を「天地創造の神」と考えることにしています)。

まずは、プロセスの全体を俯瞰するために、『情然の哲学』の次の部分を読んでみましょう。

  • はじめに「情感性・クオリアのゆらぎ(情然の場)」があった。
  • 情感性の束が規則性・構造をもった情感となる。そこから徐々に理性が芽生える。原始的な言語の始まり。
  • 情感(自由性)と理性(規定性)が調和的に関係し合うことで「心」が誕生。
  • 心が家族的四位構造を通して自我を自覚することで「原初格」が確立。
  • 原初格は「愛」に目覚め、明確な「意志」をもつようになる。
  • 愛のエネルギーによって概念的ビッグバンが起こる。宇宙の諸法則が確定。
  • 概念的宇宙(イデア界)が拡大。物理的ビッグバンに向けたブループリントができる。
  • 物理的ビッグバン。量子宇宙の誕生からインフレーション膨張へ。

(『情然の哲学』p145〜p146)

ここに引用したのは第3章の末尾の部分ですが、ビッグバン以前の不可知の領域をここまで明晰に洞察し分析している点は、驚嘆に値します。

上記の①から⑧までの内容について、「原初の心の成長」という観点から簡単に補足説明しておきましょう。

神学的な立場から見ても、この部分は、「神の誕生と成長」という重要なテーマ(ただしキリスト教の神学にはこのようなテーマはありません)の論究になるため、注意深く仮説を検証する必要があります。

まず、わたしがいちばん大切だと思っていること。

それは、「原初の心」はなぜ「愛」に目覚めたのだろうか、という疑問に対する回答です。

このあたりのところがきちんと説明されていないと、『情然の哲学』も「普通の本」になってしまいます。

そこで、先に引用した箇条書きの部分を改めて読んでみると、➄のところが該当の箇所であることがわかります。

原初格は「愛」に目覚め、明確な「意志」をもつようになる。

とありますから。

ここでいう「原初格」とは、「神」の心のなかに確立された「家族的四位構造」、すなわち「親子軸と男女軸の形成」と考えてよいでしょう。

陽陰の極性を帯びるようになった純粋感情のなかに親子軸と男女軸があらわれたとき、そこに自我意識をもつ「原初の心」が形成されたとわたしは考えていますが、その「原初の心」がなぜ「愛」に目覚めたのかというところが、とても大切な問題なのです。

『情然の哲学』はこの問題に対し、次のような説明をしています。

家族的四位構造の各位は、それぞれ情的な力によって結びついている。方向性をもたなかった情感が、理性の働きにより「向かうべき対象」を見出し、それによって安定的な構造をもつ「人格(原初格)」が確立したということができる。

「対象に向かう情的な流れ(力)」を、より端的な言葉でいえば、それはまさしく「愛」にほかならない。この愛の力こそ、エントロピー増大の法則に逆らって秩序をもたらす原動力となるものである。ここでいう愛と一般的に流通している愛とは、必ずしも同義ではない。これは情感と理性が融合した「方向性をもつ力(ベクトル)」のことであり、あらゆる力の源流となるものでもある。

力の究極的な根源は情然の場にあるが、それはベクトルをもたない可能性としての潜在的な力であり、いわば「発現していない力」である。それに対して愛の力は「現れた力」である。物理学の最前線において多くの天才たちが「四つの力」の根源に迫ろうと日々研究を重ねているが、最終的にそれは「愛の力」として統一されることになるだろう。

愛は単なる盲目的な情動ではない。無秩序な欲望の発露でもない。情感(情感性・自由性・偶然性)と理性(規定性・法則性・数理性・必然性)が調和的に融合しながら対象に向かう情の流れを情然の哲学では「愛」と定義する。

自由な状態にある情感に、流れるべき方向性を示し規定するのが理性だ。情感と理性から成る「愛」は構造的には「心」と同じになる。「心」がある対象(理想)に向かって流れ、強いエネルギー(ベクトル)となった状態を「愛」ということもできるだろう。より一般的な言葉でいえば「愛」とは、何かに「心」が惹き付けられることである。

(『情然の哲学』p137〜p139)

世の中には星の数ほど書物がありますが、「愛」についてこれほど明確な定義をしている書物を、わたしはほかに知りません。

わたしたち日本人がキリスト教についていまひとつ同感できないできたのは、おそらく、「なぜ神は愛なのか」という部分が根本的に疑問だったからではないでしょうか。

キリスト教の世界に丸ごと入ってしまえば、「神は愛なり、アーメン」ということになりますが、教会から一歩外に出た途端、そこには、とても神がいるとは思えない過酷な現世が存在しています。そして、わたしたちの人生には「今ここにある現世」しか与えられていないわけですから、牧師さんの高邁な話をいくら聞いたとしても、なかなか「神の愛を心から信じる」というところまでいかないのです。

それが証拠に、日本におけるクリスチャン人口は、いまもって総人口の1パーセント未満の水準にとどまっています(そしてこれから爆発的にクリスチャン人口が増えるという見込みもありません)。『宗教年鑑』2019年版によると、伝統的な(新宗教を含めない)キリスト教の信者数は、日本の人口のおよそ0.8%です。

「情然の哲学」は、「神の愛」を理解するのに「信仰」などは要らないと言わんばかりの明晰さで、ビッグバン以前の世界について語っています。わたし自身はこれまで、「神の愛」というものを漠然と信じてきたわけですが、この書物を読んで、やはり聖書の教えは正しかったのだという思いを新たにすることができました。

そしてそれはわたしにとって、とても衝撃的な経験でした。

「原初の心」が愛に目覚めたのだとすれば、神の宇宙創造の根本の動機がわかるようになります。そして、わたしたち人間の幸福の源泉も「愛」にあることがわかるようになります。愛という概念を中心に据えれば、わたしたちはそこから、統一した世界像(グランドセオリー)を紡ぎ出していくことができるのです。

では、以上の話のまとめとして、『情然の哲学』の次の箇所を読んでみましょう。

これまで述べてきたように情然の場において偶然性の中を自由に漂っていた情感性は、心地よさの方向に流れの束を作り情感となり、さらに喜び、幸福を求め、それを持続するために方向性を定めて自らを規定する理性を生み出したのであった。それゆえ情感と理性が融合した愛は、自由であると同時に規定性をも本質要素として内包することになる。人は、愛することによって自由なる主体制を確立し、同時にその愛の喜びは対象に拘束されるのだ。

(『情然の哲学』p140)

以上の内容が、「原初の心」の成長過程となります。

「神の成長」と「人間の成長」は相似形になっているため、『情然の哲学』の第3章の内容は、きちんと読むとそれほど難解なものではなく、「言われてみればそのとおり」という話になっていますね。

本講座の今後の予定

今回の講座は、『情然の哲学』第3章の後半の内容をわたしなりの視点から解説し、論評したものです。「情然」という新しい概念について説明したこの章は、この書物においてとくに重要な部分となっているため、本講座においてもいくつかの回にまたがって解説してきました。

意識とは何か、概念とは何か、言語とは何か、クオリアとは何か、心とは何か、人間がもっている創造性とは何か、といった、人間学にとって基本的かつ中核的な問題群が、この書物のなかで理路整然と解説されている点に注目しましょう。

「情然の哲学」は、歴史的に構築されてきた科学・哲学・神学のそれぞれのパラダイムの外側に位置することで、世界の根源(アルケー)の問題にこれまでにない視点からアプローチしています。

第3章ではアルケーの問題の解明に力点がおかれていますが、第4章以降では、「神の心」(原初格=家族的四位構造)とこの世界との類縁関係(相似関係)について解き明かされることになります。とても興味深い内容ですが、この哲学の最も重要な部分(第3章)についてはすでに解説が終わっているため、今後は章単位で解説をすることにしたいと思います。

具体的には、以下の通りです。

第19回 『情然の哲学』第4章についての解説と論評

第20回 『情然の哲学』第5章についての解説と論評

第21回 『情然の哲学』第6章についての解説と論評

第22回 『情然の哲学』第7章から終章までについての解説と論評

『情然の哲学』についての解説はあと四回ほど行う予定ですが、そのあとは再び『人間学とは何か』に戻り、そこで扱われている内容をわたしなりの視点から論評することになります。

ただし、更新のスピードはこれまでより遅くなり、今後は二ヶ月に一度、奇数月の更新にする予定です(したがって、次回の更新は11月になります)。この講座も回を重ね、18回まで続いてきたので、このあたりで更新の頻度を少し緩めることにしようと思うわけです。

『人間学とは何か』についての解説と論評が終わったあとは、日本人間学会オリジナルの「新しい人間学」について語るつもりでいます。ただしそれは、今から一年ほど先のことになると思うので、その時期が来たらもう少し具体的に話すことにしましょう。

いずれにしても、この講座は当分のあいだ続くことになると思うので、読者のみなさまも、気楽に、そして気長におつきあいください。

学会からのお知らせ

最後に、日本人間学会の最近の活動についてお知らせします。

当会では、人間学の研究はおもに研究会員の方々によって進められていますが、その活動内容は、当会の季刊の会報で会員の方々にお知らせすることにしています。

現在、会報に掲載しているコンテンツは二つあります。

一つは、「人間学談義」。もう一つは、「日本の未来を創造する新教育論」というものです。

「人間学談義」は、数人の研究会員の方々が集まり(リモートでの会合)、人間学やそれに関連する学問についての意見交換をするもの。

また、「新教育論」は、「教育=受験(学歴の獲得)」という暗黙の了解のもとに行われている現在の学校教育のあり方を見直し、より望ましい教育のあり方について提言するというものです。

先日当会が発行した夏号は、通算で20号となりましたが、上記の二つのコンテンツのほかに、研究会員の方のインタビューも掲載しています。また、今年の春号には、崎谷満先生(研究会員・京都大学医学博士)の論文なども掲載しています。

それから、会報の発行とともに、当会ではこの春から、新規入会の方を対象とした新しい企画をスタートさせています。

当会がほかの学会と違うところは、どなたでも加入できる一般会員を募集していることですが、初学者の方が人間学の基本を効率的に学ぶことができるよう、この春から個別のフォロー体制を準備することにしました。

具体的には、当会の入会者にもれなく『人間学とは何か』(菅野盾樹著)を進呈し、有志の研究会員の方とメールのやりとりをしながら人間学の学びを進めてもらう、という企画です。

当面は、この講座の著者であるわたし(関根)が新規入会者の方の案内役を務めることになりましたので、この場を借りてお知らせいたします。

「人間学」はとても奥の深い学問であり、また、わたしたちの人生を豊かにしてくれる学問でもあります。「人間」についての学問的研究は100年ほど前から始まっていますが、先人たちの思索を参照しつつ、21世紀の社会を有意義に生きるための実効性のある世界観を学ぶことが今、必要とされているのではないでしょうか。

「人間学の普及」を、当会が社会貢献と捉えているゆえんです。

会員の登録方法などについてはホームページに案内がありますので、そちらをご覧ください。

わたしたちと一緒に、人間学について楽しく学んでいきましょう。

なお、『情然の哲学』は現在、Kindle版が発売されていますが、冊子版は当会から直接購入することができます。この講座に興味をお持ちの方は、『情然の哲学』も併せてお読みになってみてください。

お知らせは、以上です。

次回の講座は、11月初旬を予定しています。

では、今回の話はこのへんで。