HOME > 会報・書籍 > 月刊『致知』 2013年5月号

月刊『致知』 2013年5月号 「生涯現役」コーナー掲載記事 - 続き1 -

七回の死線を越えて
今村さんの人格形成の基盤となったものはなんですか。
今村 私は、若い頃に大病をやりました。当時は死亡率が非常に高かった結核に罹り、十年間、闘病生活を強いられました。その間に東京裁判が行われ、日本のやったことは果たしてよかったのか悪かったのか、何が正しいのか正しくないのかといった問題に、非常に深く悩みました。それも人間学を学ぶ一因となりました。

戦地へも行かれたのですか。

今村 はい。私は新しく試作した戦闘機の審査業務に従事しておりまして、三回も墜落を経験しました。幸い命は助かりましたが、昭和十九年春、耐寒試験中に大事な戦闘機を三機大破、中央から来られた中佐から「おまえは責任上、軍法会議にかける」と言われました。しかし軍法会議で処罰されるよりは「ここで腹を切ったらどうか」と言われたんです。
やむを得ず飛行場の隅に白い布を敷き、部下に介錯をしてもらうことにして、思い切って自分の腹を刺した。軍刀なんかで腹は切れないですよね。案の定、刀ごと後ろへひっくり返ってしまい、部下も介錯ができなかった。すると中佐から「腹を刺したんだから許してやれ」と放免されて、私は札幌陸軍病院に入院したんです。

九死に一生を得られた。

今村 その時に刺した腹の傷は、いまでも大事にしております。
そんなこともあって、飛行機で三回、腹切りで一回、結核で十年間、母が看病してくれた中で、医師からは諦めろと言われたことが三回あった。七転び八起きと言いますが、本当に七回転びました。だからなんで今日生きていられるのだろうかと、時々本気になって思います。

軍隊へ行かれたのはおいくつの時ですか。

今村 二十四歳の時に入隊し、終戦時には陸軍技術少佐で特攻機を送り出す立場でした。

あぁ、まだ二十代半ばで。

今村 私は、これだけは二度とやりたくない。いまでも、夢に出てくるんです、その青年たちが。私、夢で泣いているんですよ……。私も二十代でしたが、彼らは皆、十代の終わり頃です。まだ子供です。そういう子たちに操縦技術を教えて、いよいよ発つという日の前の晩には、最後のご馳走をして、全員に遺言を書かせました。皆、両親兄弟姉妹や友人に書くんです。
十七、八で明日死ぬんですよ。そんな簡単に死ねますか。でも彼らは一所懸命書くんです。そして最後は肩を組んで、『故郷』の歌を歌いました。皆ね、国を思うこともそうですが、一番は故郷なんです。そして、思うのは両親、兄弟姉妹、仲間たちです。
しかし我われは泣いちゃいけない。泣いたら覚悟が鈍るから。しかし私は自分の布団に入ってから泣きました。私だけじゃない。
彼らは翌日、堂々と出掛けていきました。車輪を落としてね、片道燃料しか積まずに飛んでいく。泣いてはいけないと言われていましたけど、私たちは最後……、最後を見送ると、皆後ろを向いて、分からないように泣いたんだ。もうあの思いだけはしたくありません。だから戦争にだけはなりたくないですね。

絶望の淵で私を救った言葉
今村 あの戦争でたくさんの仲間たちが死んでいきました。多くの国民が空襲等で亡くなった。このことを思うと、なんで俺なんかが生き残ったんだろうか、という負い目が胸を去らないんです。
それで戦争が終わった時に、もう死のうと思いました。山梨県の慈照寺に大森禅戒という方がいらして、その方の所へ私はお別れに行ったんです。そうしたら大森先生が、私にすらすらっと二つの短冊を書いてくださった。
一つは「百尺竿頭進一歩」。一般には、成功しても甘んずるなかれ、もう一歩進めと解釈するでしょう。しかし先生は「おまえはいま完全に追い詰められている。しかしもう一歩進めてみろ。そこにこそ生きる道も見出される。死ぬつもりなら、もう一歩死ぬ気で飛び出せ」と。
もう一つは「滅二却心頭一火自涼」。どんな苦難に遭おうとも、おまえが持っている思いを全部捨てて、心の中を空しくすればあらゆる苦難も楽になる。

その思いを二つの言葉に託して伝えられたのですね。

今村 はい。そのおかげで私は死ぬのを諦めました。
それで二十八歳の時、鉄道技師になり、三十六歳で防衛庁技官、防衛大学校教官を退官後の六十六歳の時、経団連が創設した国際科学振興財団に、専務理事として赴任しました。
会長だった土光敏夫さんが厳しいお方でした。最初の理事会の時、私が長々と三十分ほど説明しましたら、えらく叱られましてね。「専務理事とは何をやるか心得ておるか。ここにおられる理事、評議員の方々のお知恵を拝借しなければならない時に、おまえは自分のしてきたことばかりをベラベラ喋っている。今後十分以上話すようなことはないように気をつけろ」。それからは話す前に一所懸命考えました(笑)。
東芝が倒れかかった時、土光さんが再建のため東芝に来られて「社員諸君にはこれから三倍働いてもらう。役員は十倍働け。俺はそれ以上に働く」と言われた有名な言葉がありますが、実際に土光さんは一番初めに出社されたそうです。社員が来る一時間前に、全重役を集めてその日の仕事の打ち合わせを全部やってしまう。そのやり方が官省や公的機関にも入ってきて、私もとにかく働かせていただきました。
副会長の花村仁八郎先生も凄いお方でした。財団へ行くなり「君にやる給料などない。給料が欲しかったら働け」と(笑)。財団が黒字になるまで三年かかりましたが、その間私は一切給料なし。防衛大を辞める時にもらった退職金をほとんど食い潰して生きました。

 

続き