設立趣旨

今日、科学とその技術の目覚ましい発達によって、物質文明は著しく進歩した。
遠い昔は哲学優位であったが、今日では科学優位となり、すべての学問分野において研究はさらに専門化、細分化、断片化してきた。これは科学的研究の特徴であり、そのために高度な進歩も得られるのである。そういう専門の研究は貴重なものであることは間違いない。しかし、そのことにより、一つの専門は他の専門と互いに相通じることが難しくなってきたとも言えるのである。

さらに問題は、ともすればそれが「人間」不在の研究になる恐れもあるということである。
ことに、人間の科学といわれている医学においては、身も心も分析し、人の心を記憶に還元し、コンピューターに置き換えて物質レベルで解明できる時代になったと言われている。コンピューターは考えたり判断したり、また数値処理、定数探知、傾向分析などもできるというが、しかしそれは、あくまで人間が考えて作ったプログラムの延長線上に条件づけられた分析能力に他ならない。

もちろん、記憶と分析能力は大切なものであるが、感情や直感力、創造力は含まれていない。また怒りや悲しみのような感情の変化などは、ある種の物質(たとえば「怒り物質」)によって説明できるようになると言われているが、それは、衝動や環境因子によって駆り立てられる動物・人間共有の心であって、そこに人間らしさは含まれていない。

そこで、特に考えなければならないことは、人間には、意味探求、自由決断、責任、創造、感動、洞察、信仰などはもちろん、さらに総合理解、価値判断といった心の活動があり、それは人間をして人間たらしめている心であり、それが人間性とか、人間らしさの根源なのである。

このように考えてくると、人間に関する科学的研究は、それが細分化されて進歩すればするほど、逆に人間そのものから遠ざかっていく傾向を否定できない。そこで、再び人間次元に立ち戻らなければならない。人間次元とは、広義の意味合いでは「人間存在」すなわち「実存」のことであり、狭義の意味合いにおいては「精神」(人間固有の心的領域)のことになる。

人間存在へのアプローチには、教育学的、医学的、法律学的、経済学的等さまざまなアプローチがあるが、これらはすべて人間の「精神」の次元において共通点(接点)を持つことになる。そしてそれぞれのスペシャリストは、すべての共通の場である人間次元においてジェネラリストの立場も取ることになるのである。

そこで、私どもは、各分野の専門家の方々とともに、専門諸科学のみでは説明し尽くせない人間存在の問題を、「人間学」という「学際的」な場において、それぞれ共通の問題つまり人間の「精神」を語り研究しあう「人間学会」なるものの誕生を見るにいたったのである。

(高島博「1988年3月人間学会雑誌NO.1」より要旨抜粋)